第三十七話 「凪」
男が上陸したとき、そこは銀世界と化していた。
祖国を出立して実に一か月。嵐に遭い、海上でさらに一週間。片方の帆船を失い、失意に暮れながらも滞在を続けた理由がようやく実った。
船上から望んだ景色。
それは独立峰の頂から、双頭を持つ氷の龍が飛び出したものだ。
氷龍はこの絶海の孤島を呑み込んで、そこに暮らす全ての生命活動を、永久凍土の内に閉じ込めた。さらに渦潮の巻く死の岩礁地帯は、役目を果たしたように沈黙。異変に気づいてすぐに小舟を出すことができた。
氷雪の敷かれた砂浜に降り立ったとき、遠くの方に人里のような集落を見かける。
案の定、高床式の居住区は氷壁に閉ざされていた。
その中に住んでいた老若男女の現地人も、余すことなく氷の内に封じられている。
「――団長、この状況は一体?」
鎧を着こんだ騎士の一人が、男を団長と呼んで意見を求める。
男は冷え切った殺風景を見渡して見識を示した。
「再封印が施されたのだろう。原初の自我人形たちは番人でありながら、不完全な自我として孤独の戒めを解くことが分かっていた。自我人形を産み落とした創造主は、孤独を目覚めさせないように、あらかじめ細工を施していたらしい」
「……はあ」
部下は怪訝な表情で、話の一割すら理解していなかった。
それもそのはずだ。その真実は預言者の王と、団長の間にのみ伝わっていたものである。副団長や一部の者には、異なる解釈を教えてあった。
孤独の目覚めの楔となる、あの少女ですらも――
「優しすぎる自我は、必ず別の手段を探そうとする。この結末を伝えていれば、それを回避しようと躍起になったはずだ。しかし孤独は封じられなければならない。災厄をもたらす者として、旧時代に我らが祖王の犯した咎を、永劫に背負い続けてもらわねばな」
常世から零れ落ちた自我を自我人形に封じ込めて、人々の安寧を守るために、最強の兵団を作ろうとした禁忌の行い。
この罪を背負わされて、孤独を宿した男は歴史から存在そのものを消された。
「――どうなってやがんだ! お袋! ルキ! 他のみんなもよ!」
そのとき集落に、ひと際大きな声が上がった。
どうやら、まだ凍りついていない生き残りがいたらしい。団長がそちらに向かうと、二人の少年と意識を失った屈強な大人たち――そして、もう一人。
「生きていたか、ユニア」
「だ、団長……なの、ですか?」
透き通った碧眼が見開かれる。
少年たちとともに、現地人を背負っていたのは部下のユニア。
片割れの帆船とともに生存は絶望視されていたが、どうやら命を取り留めたらしい。
「良かった、ユニア。役目を果たし、この島の封印を見届けてくれたのだな」
「何のことですか、団長……いえ。それよりも、早く彼らを助けなければ!」
「ああ、詳細は後で詳しく話そう。今はまず――」
団長は片膝を地面につき、手近な氷壁に触れた。
途端に青い光陣が展開されて、足元から一匹の氷の犬が現れる。術代だった。
「うおっ、何だそいつ!」
ガタイの大きな少年が、氷犬に目を丸くしている。
団長は無造作に片手を振るった。
その瞬間、男に生み出された冷たい獣は、驚く彼に覆いかぶさらんとした。
「――ゼウム!」
弾けるように、彼が肩を貸していた男が声を張り上げる。
身を挺して少年を庇い、抱きつかれた猟犬によって全身が徐々に凍結を始めた。
「親父!」
「……薄れた意識の中で、お前の活躍は認識していた……戦士ゼウムよ。あまり父として手ほどきをしてやらずに、すまな……かっ……」
凍てつく猟犬は、屈強な男を氷の中へ完全に閉じ込めた。
「な、何を!」
ユニアが愕然としている最中、もう一匹の氷犬が線の細い少年に襲いかかる。
これを防いだのもまた、寸前に意識を取り戻した戦士らしき男であった。
「父さん!」
「我が息子セクトよ……お前はもう、一人前の戦士だ……偉大な父プンクトのように、その未来は自分で決められる……ソリトゥードの民の誇りを胸に、己の自我を、生き……よ……」
父の氷像の前に、少年は膝を落とす。
その脇で団長は立て続けに、三体の術代を生み出した。
獰猛な牙を携えた氷の猟犬は、与えられた役割に従事する。
「てッ、めえッ! いったい、何しやが――」
「駄目だ、ゼウム!」
ガタイの大きな少年に飛びかかった氷犬。
これを線の細い少年が突き飛ばし、間一髪を回避する。
「……っ! セクト、ゼウム、ここを離れて!」
ユニアは二人の腕を引き、急いで集落を飛び出していく。
小舟で一緒に来た数名の部下は、状況が理解できずに困惑するばかりだった。
「やはり優しすぎる自我は手間がかかる。さりとて、そうでなければ――旧時代、お前の先祖が孤独を愛することもなかったのだろうな」
運命は必ずどこかで交差する。
一つの羽ばたきは、遠いどこかで、より大きな事象となった。
孤独の目覚めに必要だったのは、かつて愛した女性の自我の欠片。
それを宿す少女の存在こそが、再びこの島を封印するための楔であった。
三つの影がひた走る。
行き先など分からない。しかし逃げなければ命はなかった。
運命に導かれるように辿り着いた想幻岬。それを追走する三体の氷の猟犬。捕まれば氷漬けにされてしまことは理解していた。
されど、徐々に細まってく岬の先端に、逃げ道などどこにもなかった。
「お前らは飛び込め! オレが足止めする!」
「やめてくれ、ゼウム!」
セクトの呼び声も空しく、ゼウムは一匹の猟犬を掴み込んだ。
その末路は分かりきっている。ユニアに手を引かれて、大いなる海を目指す従弟の姿を見据えながら――
「生きろよ、セクト……オレたちの分まで……」
ゼウムは最後のときまで、その身を案じ続けていた。
氷の彫像の脇を、二体の猟犬が走る。
断崖絶壁まで追い込まれた場所で、ユニアはセクトを背に庇った。
「貴方は生きて。どれほど今が苦しくても、その先にはきっと、希望があるから」
それは孤島に流れ着き、絶望の淵に立たされた少女が望んだ景色。
あの優しくて、温かくて、労わりを持った赤い眼差しに。
「ユニアァッ!」
「ワタシは貴方に、救われたから――またね、セクト」
猟犬を受け止めて氷ゆく碧眼の少女は、赤い瞳の少年に花のような笑顔を送った。
「……ッ!」
意を決し、少年は断崖絶壁から大いなる海に飛び込む。
荒れ狂う本流を前に、恐怖を感じる暇もなく、水面に叩きつけられようとして。
「あぁ――そうか」
頭上から降り注いだ猟犬が、少年の喉元に喰らいついた。
じわじわと全身が凍っていく。
身を切る寒さを甘受しながら――
「爺ちゃんは分かってたんだね。ガレーネ島に戻ってきたときから、ソリトゥードの民に待ち受けていた運命を……ああ、ボクは孤独を連れて、この島を出て行くよ」
祖父プンクトの真意を理解するのだった。
「――ユニアは船で救命措置。暴れるぞ。少年は集落に運んでおけ。絶対に傷はつけるな」
団長は部下に指示を下し、独り壮大な独立峰を望む。
「我が王よ、これで良かったのですか。常世とのバランスを崩し、定着した自我を失いかけた住民を全て封印に巻き込む。さすれば自我の崩壊は止まり、いずれ封印から解放されたとき、本物の人間として目覚める日を――夢見るために」
示された道を全うすることが騎士の使命。
たとえ誰かに恨まれようが、己が信じたものに従って自我を貫き通す。
それが正しい選択なのかは分からずとも、人の上に立つ者の宿命を男は受け入れた。
「可哀想だが、もう一人の少年は海の底。最善は尽くした。あとは、果てなき世界の自我のみぞ知ることだ」
哀愁を残し、外海の船は孤島を去る。
あとに残されるは、白銀の氷に閉ざされた世界。
山も、森も、平原も、沼も、砂浜も、集落さえも呑み込んだ隔絶の土地。
広海洋の中心に在りて、何者もの侵入を拒むその場所は――
凪の島と呼ばれていた。




