第三十六話 「玉響を仰ぐ蝶」
双頭の巨人が、空っぽだった器を見据える。
封印は解かれたのか。それとも、未だ悠久のときに囚われるのか。
異形と化して、己が自我の名すら忘れてしまった怪物に判断はつかない。それならば、やはり祭壇に供物を捧げる他に、この役目から解放される術はなかった。
過去九度。百年おきに|自我人形の戦士たちが現れ、協力して零れ人の氾濫を防ぐ。それが終われば、石櫃の眠りについて次の百年に目覚め、同じことを繰り返した。
誰に褒められることもなく、創造主にすら忘れ去られて。
いつの間にか、二つの自我は一つの想いと重なった。
――孤独を呼び覚まし、悠久の使命を終わらせる。
零れ人を倒すべく現れた戦士を生贄とし、孤独を蘇らせるだけの妄執に取りつかれた。
それが成されなければ、自ら贄の肉体を喰らい、零れ人を喰らった。歪んだ自我とともに増長した肉体は醜く膨れて、二つの自我を一つの身体に交わらせ、双頭の巨人として怪物への変貌を遂げた。
「――君たちの自我に、深い悲しみを感じる」
セクトは孤独に佇む巨人を仰ぎ見た。
「もう良いんだ。これ以上、この場所に囚われる必要はない」
【我らは孤独と歩む。孤独が目覚めし、そのときまで】
そびえたつ巨体が、孤独の依り代を求めて戦いに身を投じる。
逃れられない運命に縛られ続ける番人として。
「千年の間、零れ人の氾濫を抑え続けてくれたことには感謝してる。だけどそのために喰らい続けた自我は、その膨れ上がった身体に幽閉されてるんだ。父さんと叔父さんが目覚めないのも、これから命を落とすソリトゥードの民も、全てを巻き込んで」
【孤独を呼び覚ます。我らが使命を果たすとき】
「孤独の封印を守るという役目を忘れ、歪んでしまった自我は元には戻らない。ボクにできるのは、その苦しみを解放することだけだ」
セクトは皮手袋を脱いで、両腕を広げた。
術代は大自然との調和法。本来、それに連なる媒体を通さなければ、人間は果てなき世界の自我と協調することはできない。
しかしあらゆる概念は、孤独とともに存在している。
世界が孤独を拒絶しようが、孤独は世界を許容した。
初めから繋がりは確保されている。ならば、そこに意識の欠片を分け与えることで、生じるものは森羅万象との確固たる結びつきであった。
【自我人形の末裔よ。その余分な自我を滅し、孤独の供物として捧げられよ】
怪物の上半身の頭部が、地面の水流に沈む。
大きく膨らんでいく胸板とともに、大瀑布からもたらされる水かさが一挙に減った。
水飛沫とともに上げられる面。下半身の頭部も空気を取り込み、二か所の紫の唇が尖る。
同時に、四肢から光陣が展開された。
彼らは決着をつけるつもりだった。
「……ボクは弱い」
セクトの両腕が、羽のように虚空を掻いた。
大空洞の燐光を集めるように、指先から紡がれる細い糸状が丸い線を描いていく。
光陣が指し示すものは流転だ。
現世と常世、二つを巡る自我を導く軌跡。
生と死を繰り返し、この世界を生きる者たちの運命は決められている。
ちっぽけな一匹の蝶に、それを変えられるだけの力はない。
「周りを頼らないと、生きていけないんだ」
されその小さな羽ばたきは、遠いどこかで嵐を呼ぶかもしれない。
運命とは、あらゆる因果が複雑に絡み合ったものだ。どこかを揺らせば、必ず別の何かに影響を与える。人間同士の関係だって、一筋縄にはいかない。
「でもそれは一人じゃないってことだ……だから!」
前を向き続けるセクトに、双頭の怪物は立ちはだかる。
双頭から放出される水流と疾風。
大自然の神秘を宿した龍は、蒼と翠の輝きを、水晶の如き煌めきへと変えて顕現した。
怪物から放たれし双頭の氷龍。それは、どこか受け入れがたい光を持つ、少年の自我を否定するために暴虐の破壊をもたらす。
孤独の解放を求めながら、双頭の巨人は心の奥底で望んでいた。
――死にたくない。
あらゆる生物が持つ純粋な本能を、この怪物は抱いていたのだ。
【我らは否定する。汝の身に宿りし、大いなる自我を!】
「ボクたちは――生きるために進む! この一瞬のときを、自分の進むべき道を!」
玉響を仰ぐ蝶は、その背に翼をつけて羽ばたいた。
光陣より出現せし巨大な蝶の翼が、あらゆるものを包み込む怒涛の抱擁を与える。
渦巻く蝶は双頭の氷龍と拮抗し、大空洞に嵐を巻き起こした。セクトは吹き飛ばされないように踏ん張り、前だけを見据えて己が自我を信じ抜く。
「打ち砕け! 運命に渦巻く蝶の羽ばたきよ!」
セクトの術代は龍の片頭に、ピキッと亀裂を走らせる。
しかし二つ分の自我は、着実にセクトの蝶を押し返していた。嵐の如き突風を巻き起こそうが、個の力では決して対には届かない。
風を帯びた蝶の煌めきが細まった。
大空洞全体をミシミシと軋ませる衝撃が、次第に弱まって凪へと変わっていく。
「ぐ、ふ……っ!」
強烈な揺り戻しは、自我のみならずセクトの肉体を蝕んだ。吐血を手の平で覆い、世界からほどける一匹の蝶に、深紅の双眸を眇めて――
「ユニアっ! ゼウムっ!」
セクトは絡まった運命をともに紡ぐ、仲間たちの名を叫んだ。
「――ワタシは最後まで、貴方を信じる!」
パリン、と弾けた氷牢からユニアが飛び出した。
「――昼寝の最中に、冗談きついぜ!」
気絶していたゼウムが飛び起き、水辺に沈んでいたルキの槍を引き上げる。
二人はセクトの生み出した風に乗って、階段の如く虚空を駆け上がった。ユニアは上半身を目がけて剣を、ゼウムは下半身の傷ついた心臓部に石槍を突き刺す。
そこへ、余力を残した双頭の氷龍が襲いかかった。
「原初の自我人形たちよ! 君たちの生きるべき時代は、千年も前に終わってる!」
セクトは己に揺り戻される自我を押し返した。
消えるはずだった蝶は息を吹き返し、再び力強い両翼を得て氷龍を抑え込む。
「今この時代を生きる大切な人たちを、消させはしない!」
「ドゥリャァアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
「ハァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
瞬く二つの自我が、双頭の心臓を捉えた。
【ゴギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァッ!】
上下の口から末期の悲鳴が反響する。
鼓膜をつんざく絶叫は悍ましくも、どこか、赤子の産声のように聞こえた。
「それでも、ボクは許容するよ。君たちがこの世に、たしかに存在したことを」
勝利の果てに、セクトは僅かな哀愁を言葉に乗せた。
「って、おいおいおい!」
そのとき、ゼウムが目を剥いて腕をぶんぶん降る。
眼前で倒れゆく巨体。それは入口を完全に塞ぎ、繊細さを失った重量の塊は、足場を巻き込んで地面を圧し潰す。勝利の果てに、大空洞は密室と化していった。
「どうやってここから出るんだよ!」
「セクト、周囲の様子がおかしい!」
ユニアに言われた瞬間、セクトは大空洞の内部を見渡す。
怪物の亡骸を中心として、床が瞬く間に凍り始めたのだ。
肉体の檻から解き放たれた自我が暴れ狂うように、双頭の氷龍の残像がこの空間をのた打ち回っているようだった。床の水流だけでなく、苔植物に覆われた壁面や、祭壇の背後の大瀑布すら真っ白な冷気を放って凍りついていく。
「ユニア、ゼウム、父さんと叔父さんを連れてここを出よう!」
「いやだから、どうやって――」
「あそこだ! ボクの術代で壁の一部が崩れてる!」
セクトが指さした先は、氷壁と化していく壁面の南側。ペカ・オリギナ山から見て、マグヌスの森が広がる方角に階段があった。
力のあるユニアとゼウムが、アングとトラーベを背負う。
セクトは足場を先導し、術代で崩れた岩をどかしながら階段を進んだ。
「やったぜ、親父。オレとセクトとユニアが、大自然の怒りを鎮めてやったんだ」
「セクト。この先は地上に通じているの?」
「そうだと思う。ボクの予想が正しければ、たぶんマグヌスの森の石碑に――」
「やはり、ワタシの言葉が理解できている」
はたとユニアに指摘されて、セクトの眉間にしわが寄る。
「ごめんなさい。こんなこと言いたくないけど、でも貴方は本当に――セクト?」
不安を抱えて、ユニアは疑念を口にする。
その不確かな問いかけに、セクトは薄暗い階段を上がりながら、静かに答えた。
「大丈夫。ボクは戦士アングの息子、セクトだよ」
「セクト――ええ、そうね」
ユニアは微笑み、セクトのありのままを受け入れた。
けれど彼女は一つだけ気づいていなかった。セクトがユニアの言語を理解するように、自分もまた彼の言葉を違和感なく受け入れていたことに。
「おっ、光が見えて来たぜ!」
燐光が途切れて、頭上に白んだ輝きが見えた。
戦いを終えた三人は帰還する。長い暗闇を抜けて、自分たちが在るべき場所に。
そう――たとえ、その場所が。
『……え?』
異様な景色に、様変わりしていたとしても。




