第三十五話 「君あるいは私」
孤独が、佇んでいる。
周囲には何もない。
ここがどこかも分からない。
そこは真っ黒な闇か、真っ白な光か、混濁とした認識は明暗さえも奪う。
されど、孤独とはそういうものだった。
この世を受け入れながら、この世を嫌っている。
存在することを認めて、存在することを否定する。
孤独とは、あらゆるものを許容せず。
あらゆるものを許容する者の名だった。
「――ここ、は?」
この場所に辿り着いた一つの自我。
彼はもう、己の存在すら思い出せない。
砕かれた自我の欠片が本体に還されたとき、大本となる自我を深く傷つけた。その上で無理やり力を引き出そうとすれば、器が壊れてしまうのは当然の帰結だ。
己を見失った存在など、ただの人形と同じである。
否、初めから彼の一族は、自我の器として生み出された存在だった。
自我人形――旧時代に、人為的に作られた空っぽの肉体。
それは孤独の封印を守るために生み出された防衛機構であり、いつの日か孤独が目覚めたときに使用される依り代だった。
しかし何の因果か、自我人形たちは器ではなく、一人の人間としての自我を獲得した。
人の領域を犯した禁忌の存在は、自己を再定義して人の真似事を始めていった。
孤独の封印を守るという、使命のみを無自覚として。
「ボクは、死んだのか?」
【孤独はいつでもそこにある。死生観に囚われることはない】
それは会話ではなかった。
孤独を宿した男の自我は、千年も前に失われている。
この島に封印されているのは、外海の人間が災厄と思い込んだ孤独の残滓。
孤独が旧時代を滅ぼしかけたとされる、偽りの歴史に踊らされた人間たちの恐怖。
あらゆる邪悪を背負わされた、一人の男の独り言だ。
【原初の自我人形たちによって、私の仲間が供物にされようとしている。そのようなことをしたところで、君が蘇ることはないのだがな】
「元々あの双頭の巨人は、常世から氾濫する零れ人を倒す存在だったんだよね? 自我人形を作った存在は、孤独が大罪を犯していないことを信じていたんだ」
【百年という、およそ人間の寿命を周期に、果てなき世界の自我は常世と感応する。君という不確定な孤独は、どうやら現世にとって目障りらしい。君を常世に送り込もうと、零れ人を遣わせて、生なる目覚めをさせようとする。封印ではなく、確実な死を与えるために】
「果てなき世界の自我こそが、孤独を目覚めさせる原因だったってことだね」
【君の封印は予定調和のはずだった。原初の自動人形たちは、永劫に君を眠りに就かせる歯車として機能するはずだった】
「でも千年のときは、巨人の自我を歪めてしまった。封印を守ることではなく、自分たちが役目から解放されるために、封印を解くことを選択したんだね」
【孤独は常世でさえも嫌われるというのにな。君はこのまま終息していたいものだが、それすらも叶わないのなら、あとは運命に身を委ねるだけだ】
「そう、だね……孤独は全てを許容せず、全てを許容する者。ボクは何もできない。ここにあり続けることだけが、残された唯一の運命……」
――ト……。
何かが、聞こえた気がした。
孤独に呼びかける者などいない。
きっと気のせいだ。
【なぜ自我を背ける。なぜ聞き届けようとしない。なぜ彼女を見捨てようとする】
「ボクは戦士として半人前だ。ボクじゃ勝てない。ボクはあの娘を救えない」
――セ……ト……。
【それは私の名だ。もはや見て見ぬふりはできない】
「ボクはずっと情けなくて、一人じゃ何もできなくて、それだけの力もなくて」
――セクト……っ。
【言い訳は止せ。私には力がなくとも、残されたものがあるはずだ】
「ボクに、残されたもの?」
――セクトっ! 貴方には、待っている家族がいる!
「ああ、そうだ。父さん、母さん、ルキ、ルクーリ」
――こんなところで、諦めたら駄目!
【自我人形は不安定な存在だ。このまま常世と繋がり続ければ、高熱に浮かされて肉体は潰える。孤独の依り代としての運命に抗い、ようやく獲得した個人としての自我が、全て無に帰すことになる】
「叔父さんもゼウムも、ウィルクスのみんなも……全員、死んでしまう」
無為な生贄として、囚われる存在。
絶海の孤島ガレーネにて、この世界に存在を知られることもなく、運命という名の理不尽によって終わってしまう。
そのようなことは、許容できるはずもなかった。
【そして私にとって、大事な存在となりつつある者もまた、氾濫する零れ人の群れに容易く押し潰されるだろう】
「駄目だ、絶対に……ボクは彼女を――ユニアを、どうしても助けたい!」
青い眼差しを湛える、花のようなあの笑顔。
それはセクトの自我の奥底に、消えることのない印として焼きついていた。
「ボクには何ができる。ボクのちっぽけな自我に、この窮地を救う力はあるのか?」
【孤独は全てを許容する。覚悟があらば羽ばたくと良い。さすれば、かつて神代と称された旧時代、神と崇められし十一人の世捨て人と、その枠組みより存在を消された一人――君が有した〝孤独の魔業〟。その力の片鱗を私は知ることになるだろう】
「人の術代ではなく、神の魔業?」
【神などこの世に存在はしない。全ては人の宿業である。しかして忘れるな。君とともに歩むということは、私の行く末に待つものは――】
「ああ、分かってる。ボクは、きっとこの先――」
点滅する世界が、するりとほどけた。
認識が置き換わっていく。
現世と常世のどこでもない場所から、在るべき世界へ。
「――セク……ト……」
喉が枯れるまで叫び続けた少女。
自己を失ったはずの肉体に、再定義されていく未熟な自我。
果てなき世界の自我は、孤独を拒絶する。
「孤独は――ボクは、全てを許容する」
されど一人の少年は、揺るぎない自我でこれを受け入れた。




