第三十四話 「二つの自我」
――孤独の目覚めが、近づいている。
天地を返した巨人は両腕を左右に伸ばした。大きく股を広げて足場をガッチリ固定し、正面から挑みかかるユニアを迎え撃とうとする。
来るか、剛力にものを言わせた一撃が――ユニアの思考は、幾百もの動きを予測した。
単純な攻撃だけでない跳躍や前進。または下半身と化した頭部が、息を吹き返すパターンすら想定し、全てに対処できるだけの神経を張り巡らせる。
だが、双頭の怪物に人間の常識は通用しなかった。
振りかざした両腕は、ユニアを殴りつけるものではなかった。
轟、と風鳴りを伴って、双腕が真下に振り抜かれる。狙いは足場の隙間の水流。
水飛沫を巻き上げる程度なら、ユニアも織り込み済みだ。あらかじめ、全ての飛び岩の位置を記憶している。たとえ視界が塞がれようが、目を瞑っても移動は可能だ。
【スゥーッ、ハァーッ】
「……っ!」
ユニアの直感は、いち早くその違和を察する。
自我を停止したはずの下半身が、ひと際大きく胸を膨らませて深呼吸した。
圧倒的な力を持つ存在が、何に対して心構えを持つ必要があった。
そもそも怪物はなぜ、飛び岩を残している。全て砕いてしまえば、ユニアたちの足場は消えて圧倒的な優位性を保てるはずだ。 これほどの巨体を有していれば、水の中にいようが人間との戦いに不利は講じない。
滝壺からの大跳躍を見せた筋力もある。その特性を活かして、なぜ一方的な強襲を仕掛けて来なかったのだ。
元来この双頭の巨人は――殺意という感情を持っているのだろうか。
「引くんだ! ユニアっ!」
セクトの声が聞こえた。
彼も怪物の手管に、何かしらの変調を感じていたらしい。
あと一手、その言葉が早く届いていれば。
ユニアが戦闘中に、余分な思考に囚われなければ――
「ぁっ――」
紡がれる声が、断絶される。
ユニアの足場の外周に、巨大な氷柱が出現した。
ガレーネ島には、稀に雪が降った。
気温が一気に下がり、ウィルクスの外に出していた水瓶に薄い膜が張る。子供たちがそれを剥がし、割って遊んでいる姿を見たことがあった。かくいうセクトとゼウムも、ルキやルクーリと一緒になって、ピカピカの表面を撫でまくり、しもやけで真っ赤になったことがある。
言い換えれば、ガレーネ島で氷結と触れ合う機会はその程度だ。
最初二人は、ユニアの周囲を円形に覆う現象の正体が分からなかった。
透明な分厚い氷の壁の内側に、ユニアが囚われている。
脱出を試みようと、いくら剣を叩きつけても頑丈な氷牢は割れなかった。
「な、何だよ、あれ。あの怪物、術代を使ったのか?」
眼前の現象を信じられず、ゼウムの顔が強張る。
「そう、なるね……術代は大自然との調和法。自我を持っていれば、誰でも使える」
理論上は、まさしくセクトの言葉通りだった。
しかし怪物は、術代の発動に皮手袋のような道具を使用していない。
否、血はすでに流れている。
樹液の代わりに全身が苔生していた。
大自然と密接に関わった肉体は、自我を分け与えることで術代を可能にする。
唯一の気がかりは、生き物の形をした依り代の姿が見えなかったことだ。
術代は必ず生き物の形を取り、しかも素材となる物質が必要となる。
いくら水が氷の原料とはいえ、無から有を生み出すことができないように、氷のない場所に氷柱を出現させることは不可能だ。
双頭の巨人の術代には、必ず何か裏がある。
「セクト! 冷静に考えてる場合か!」
痺れを切らすように、ゼウムが喚いた。
ハッと顔を上げたセクトの前で、ゼウムは囚われのユニアの救出に向かっていた。
ユニアがいなければ作戦が全て無駄となる。それ以前に、氷を発生させる術代を持っているのなら、セクトの水蝶は使えない。 あまりにも天敵すぎる。
「お前は石で術代を作れ! この馬鹿でかい氷を砕くぞ!」
「分かった……ボクも、自我を振り絞るよ!」
分析を打ち止め、セクトはアングたちの納まる石櫃を術代と化した。
二人の父親を剥き出しにするのは忍びないが、祭壇そのものを蝶に変えて、足元を崩壊させるわけにはいかない。
セクトの光陣の展開の合間、ゼウムはひとっ飛びに足場を伝う。
一刻も早く、ユニアの救出を急ぐ必要があった。
氷柱自体は彼女に危害を与えるものではない。しかし氷の内部は冷え切っていた。全身鎧を纏っているとはいえ、汗が張りついた服が冷やされて体温が一気に奪われる。かじかんだ身体では、本来の身体能力を発揮できなかった。
自警団の鍛錬と称し、冷たい海を寒中水泳したことのある二人は、なおさらそのことを知っていた。
「待ってろ、外海のユニア! この程度、オレがぶっ壊してやる!」
槍を頭上で振りかざし、ゼウムは剛腕を発揮しようとする。
それを阻止せんと、再び巨人の両手が水に浸けられた。
【スゥーッ、ハァーッ】
先ほど聞いた呼吸音。
術代が来る――そう感じた瞬間、ゼウムは一挙に隣の足場へと移る。危機一髪、今まで経っていた平たい岩が、あっという間に氷の監獄へと変えられていた。
「へっ、前兆が分かってりゃ、避けられるぜ!」
【スゥーッ、ハァーッ】
再度、巨人の下半身が呼吸を繰り返した。
その度にゼウムは飛び岩を乗り換えて、間隙を縫ってユニアの氷柱に槍を叩きつける。
ユニアも必死に剣を振るっていた。内と外から同じ箇所を狙い続ければ、必ず氷は砕けた。
完成されたセクトの術代も、破壊されないように大空洞の上部から舞い降りる。ユニアの救出は目前まで迫っていた。
【スゥーッ、ハァーッ】
「……そうか! ゼウム、そいつのもう一つの自我は生きてる!」
「あ? そりゃ、呼吸してんだから、生きてるに決まって――」
「違う! 上下でそれぞれ、別の術代を発動させてるんだ!」
セクトの推測は当たっていた。
天地を返した上半身は、水流に触れることで水を操っている。
そこに息を吹きつける下半身は、足場を掴みながらうっすらと燐光の光陣を生み出していた。大空洞を埋め尽くす、苔植物の灯りがそれを巧妙に遮ったのである。
尋常ならざる肺活量から発せられる――凍てつく強風。
「ゼウムっ!」
「なっ――」
氷柱を避けようと、飛び移った瞬間を狙われた。
吹き抜ける一陣の風は尾を引いている。
二人の祖父プンクトは、かつてある話をしたことがあった。ゼウムはトラーベに外れ者との接触を禁じられていたが、そのときはたまたま一緒に聞いていた。
夢見がちな祖父のことを、ゼウムは割と好きだった。
本当はセクトのように、いろいろと外海の話を聞いてみたかったのだ。
だから、そのとき。
架空の生き物について聞いたとき、ゼウムの自我はいつになく躍った。
「こいつぁ……龍、ってやつか……へっ、かっけえなぁ……羨ましいなぁ……」
身を引き裂く突風は、刃の咆哮を振り撒いて、全身をズタズタに吹き荒んだ。
黒曜石の槍が折れる。ゼウムの身体が飛び岩の上に投げ出された。その周囲に龍の姿を模した水流の術代が飛翔し、これを風を纏った龍が急速に凍らせる。
「……つって、終わるわけねえよなァッ!」
ゼウムは折れた穂先を探り当て、これに渾身を託す。
振るわれる左腕。凍りつく直前の水流を打ち破り、槍の射突は巨人の下半身の心臓部に突き刺さった。
真新しい体液が振り撒かれ、下の頭部が耳をつんざく絶叫をする。
「……親父……オレは最後まで、戦士だったか……?」
地に伏したゼウムの瞼が、ゆっくりと閉ざされた。
片方には致命傷を与えたが、その自我はまだ途切れていなかった。
突き刺さった槍が引き抜かれる。一つの心臓を叩いただけでは意味がない。
なぜならその怪物は双頭の巨人。
二つ一組の自我は、鼓動さえも互いを補い合っていた。
ユニアの救出に放ったセクトの石蝶に、風の龍が突進する。残る自我を総動員した最後の術代は、瞬く間に破壊されて揺り戻し現象という罪禍を与えた。
「うっ、ぐぅ……まずい、意識が……」
人間が敵うべくもない、強大な存在に挑んだ代償だ。
騎士と戦士は氷牢に囚われて、族長と副長は目を覚まさない。
あらゆる手管が失われ、残された半人前は己の自我を崩壊させかけている。
絶望の淵に、光明が差すことはない。
「……いいや……まだ、だ……」
それでも膝はつかないと、セクトは己の心に誓った。
半人前でも構わない。志は戦士として、最後まで戦い抜くことを誇りとしている。
ならば、迷う必要はない。
たとえその身から自我が失われようが、大切な者たちを救うために。
「ボクの、ちっぽけな自我なんて……」
祭壇を見据える巨影、鮮血の如き眼光に射竦められながら――
「全部、使い果たしても良い!」
少年は深紅の眼差しを持って、術代を行使した。
「セクト……ッ!」
そして、手を伸ばしても届かぬ氷壁に在りて、囚われの少女は見た。
己を全て失った、孤独な抜け殻の姿を――




