第三十二話 「双頭の怪物」
巨大な影が動いた。
燐光に彩られた大空洞に、混沌と流れ続ける大瀑布。
その裏側に、ゆらりと揺らめく陰影が映し出された。
曰く、百年周期で蘇る双頭の怪物。
歴代最強の戦士たちが揃い、終ぞ討ち果たすことの叶わなかった永劫の守り手。
ガレーネ島に秘する邪悪な自我に仕え、数多の強敵を退けてきた大自然の怒りの化身。
【――幾星霜を待った。自我人形の末裔を捧げ、孤独の目覚めを望んだ。さりとて、それが果たされること能わず。我らは悠久に囚われ、孤独と歩む】
大瀑布が、真っ二つに別たれた。
岩屋から躍り出す巨体。人型でありながら、それは人間ではなかった。
人の形を模倣する零れ人ですらない。全身を覆う肌は生身だ。
灰色に変色した肉体に、苔や鉱石がこびりついた異形の風体。裸身とも取れぬ総身には四肢が備わり、太い両腕で水を掻くように全体像を露わにする。
そこには、天地があった。
映し合わせのように、二つの頭部が上下逆さまに備わっている。
上半身の頭部は、鮮血の如き眼光を宿していた。
下半身の頭部は、眠るように双眸が閉ざされる。
それはまさしく双頭の怪物であり、遥か見上げんばかりの巨人であった。
「なっ……股に逆さまの顔がぶら下がってやがる」
「これが、父さんたちの戦った怪物」
「構えて!」
きつけの如く、ユニアの一喝でセクトとゼウムは臨戦態勢に入る。
【デュギョォオオオオオオオオオッッッ!】
巨人が唸りを轟かせた。
直後、セクトたちの頭上から影が落とされる。
天穴を覆うは雲の切れ間が如く、一瞬の陰りをもたらした双頭の巨体。怪物は滝壺から一気に跳躍し、大空洞に降雨を振らせながら特大の跳躍を果たした。
ズドン、と平たい二つの足場に怪物の巨躯が着地する。完全に入口を塞ぐ形だった。
鯨のような重量を誇る双頭の巨人であるが、その動きには繊細さがある。
頑強な下半身で平たい岩を鷲掴みにし、負荷を分散して倒壊を防いでいる。
足ではなく、手の平で。
「嘘だろ、おい。こいつ、手が四本ついてやがんぜ」
「むしろ、足が無いって言った方が正しいかもしれない」
上下逆さまにくっついた二つの上半身。零れ人でさえ、ここまで人間離れした生物の形を取ることはないはずだ。
さらにルキを探したマグヌスの森で、零れ人の放った自我人形という言葉。それと同じ響きを、大瀑布から現れた双頭の巨人は用いていた。
祭壇の石櫃に納められた、アングとトラーベのことも気にかかる。
全てに人為的な意図が組み込まれているとしたら、ガレーネ島に封じられた孤独な自我が、これらを望んで生み出したのだろうか。
「ワタシは左周り、ゼウムは右周りの足場。セクトは、ここから術代の支援を」
ユニアは言葉と動作で方向を指し示し、二人に合図を送る。
ゼウムが左利きで、ユニアが右利きであることを活かした即席の戦略。瞬時にこの判断が思いつく辺り、彼女の騎士としての経験を物語っていた。
「何言ってるかさっぱりだが、要は怪物をぶっ倒す! そんで良いわけだ!」
「ああ、その通りだよ! 父さんたちと一緒に、ここから生きて帰ろう!」
「ワタシがこの手で、決着をつける。二度と彼らの顔が、曇らないように!」
不明なことは多い。だが、いつだって人間は目の前のことで手一杯だ。
三者は異なる心を一つに合わせて、双頭の巨人に挑んでいく。
「――ドゥリャアアアッ!」
一個飛ばしに足場を蹴り上げ、黒曜石の槍が振るわれる。
決死の切り込みを仕掛けた一撃に、怪物は動じなかった。まだ成長途中ながら、ゼウムの上背は大人顔負けだ。セクトやユニアと、頭一つ以上の差がある恵まれた体格である。
しかしそれは人間社会での話だ。
相対するは、ゼウムを縦に五人ほど並べた奇形の巨人。
左脚もとい下左腕に食い込む先鋭を、躱す素振りすらなかった。非力な人間の力を嘲笑うように、ゼウムが繰り出す連撃を涼しい顔で受けきる。
「ちっ、痛みを感じてねえのか!」
「危ない、ゼウム!」
セクトは石蓋を術代に変えた蝶を、ゼウムの正面に回す。
無造作に振るわれた上左腕は、石蝶ごとゼウムを叩きつけた。
辛うじて後方の足場に飛びのくが、セクトの術代はたったの一発で粉砕される。
揺り戻しが起こり、セクトは眩暈を感じてその場に蹲った。
「なんて馬鹿力だ……こんな簡単に壊されたら、自我が持たない……」
自我とは己を保つ力だ。
術代に分け与えれば疲弊し、揺り戻しが起きれば消耗する。
肉体の傷と同様に、回復するには時間がかかった。二首沼で一度破壊されていることを考慮すれば、敵の攻撃を受けられるのは残り一回が限度。それ以上は禁忌の領域だ。
術代の使い過ぎで自我が擦り切れた者は、己を喪失させるという。
「……いや、弱音なんて吐いてる暇はない!」
まだ仲間たちが戦っている。セクトは水流に手をかざし、青い陣を発動させた。
セクトが術代を再構築する間に、左手側の攻防が始まる。
鋼鉄の鎧を纏いて、岩場を疾駆するユニアの体力は凄まじい。
どれほどの鍛錬を重ねれば、一見華奢な少女が戦いの場に立つことができるのか。血の滲む努力だけでは、到底成し遂げられない気迫が、彼女の振るう剣には込められていた。
「フッ! ハァッ!」
爆発的な運動量。乱れる呼吸を整えて、白銀の刀身が煌めきを増す。
怪物の懐に潜り込み、ユニアが狙うは下半身の頭部。どういった身体の構造をしているかは不明だが、急所を狙われて無傷でいられる生物はいない。
当然、二頭の巨人も己が弱点は熟知している。
緩慢そうな巨躯に似合わず、機敏な上右腕がユニアに平手を食らわせた。まともに受ければ鎧ごと打ち砕かれる。
不安定な足場を捨てて、彼女は一挙に跳躍した。
紙一重で巨人の張り手を空中回避し、身体を宙で回転させて上左腕に飛び移る。神がかった芸当に息つく間もなく、ユニアは灰色の表皮を駆け上った。足を取られそうな鉱石や苔を瞬時に見極めて、怪物の肩口に差し迫る。
「下の目は潰れていた。おそらく、二人の戦士が傷つけたもの」
下半身の頭部が双眸を閉ざしていたのは、眼球を貫かれていたからだ。
ユニアはいち早く戦士たちの足跡を辿り、怪物の急所を仕留めにかかった。戦士アングと戦士トラーベの戦いが、無駄ではなかった証明である。
「上も潰してしまえば、決着が近づく!」
戦う者として貪欲に、ユニアは目の前の勝利に手を伸ばした。
振りかぶった長剣が怪物の右目を貫かんとする。しかし服についた虫でも払う動作で、上左腕の手の甲がユニア目がけた。
とっさに剣筋の方向を変えて、ユニアは力強く薙ぎ払う。
「ハァアアアアアッ!」
勇ましい響きが空洞内を木霊し、ユニアの剣は怪物の手の甲に炸裂した。
「弾きやがった!」
ゼウムが歓声を上げる。あの丸太の如き指一本ですら、普通の人間ならびくともしない筋力を有しているはずだ。それを腕ごと吹き飛ばすなど、惚れ惚れするほどの離れ業である。
双頭の巨人は唸り声を響かせ、今度は上右肘を折り畳んだ。
ユニアを叩き落とすつもりだった。
「させるかよォ!」
いつまでも傍観しているゼウムではなかった。
穂先の近くを握った、ルキの短槍を投擲の構えに移行。
狙い澄ますは、ユニアに追従して左の目玉だ。
剛腕を振りかぶって射出された短槍は、一目散に眼球を射貫く。
しかし運悪く、ゼウムの放った投擲は瞬きに防がれた。その代わり瞼に石の先鋭が深く突き刺さる。青緑に濁った禍々しい体液が伝った。
怪物が全身をぶるりと震わせ、衝撃でユニアが落下する。
その拍子に兜が脱げてしまい、一本に結んだ金髪が流れた。彼女は華麗な身のこなしで、近くの足場へ無事に降り立つ。
「やっぱり、この怪物は零れ人じゃなくて生きてるんだ……圧倒的強さをぶつける必要がないなら、ボクの術代も通用する」
武力の低いセクトは、零れ人に勝つことはできない。
術代はお遊戯。仲間たちに揶揄され続けながらも、己の取り柄を磨き続けたセクトは、床を走る水流を最大限に利用した。
「羽ばたけ、水蝶よ。怪物の顔を塞いでくれ!」
セクトはありったけの自我を費やし、怪物の頭部に匹敵する術代を完成させた。
形を大きくするほどに分け与える自我は増して、破壊されたときの揺り戻しは大きくなる。
その分、小さな術代よりも自由意志が反映された。セクトの望みを事細かく聞き届けるように、羽に大渦の模様を描いた水蝶は飛翔する。
これに気づいた怪物の両拳が、術代に対して連続で放たれた。
普段なら敵の攻撃に対して、術代は回避行動を取らない。されど特大の自我を盛り込んだことによって、水蝶はひらりと格闘を避けていく。
ムキになった双頭の巨人だが、その巨大な腕すら届かない制空権を握り、頭上から一挙に両翼を舞い広げた。
怪物の顔を覆い、水蝶はひと塊の水泡と化す。
この地上に生きる限り、生あるものは呼吸を否定できない。双頭の怪物においても、絶対的な理を覆す術はなかった。
水玉のように滞留する内部に、怪物の口から気泡が漏れ出す。
それに合わせて、渦巻く水流が鼻孔から勢いよく入り込み、着実に体内から酸素を奪った。
苦し気にもがく巨体が、無造作に四肢を振るう。
上両手、下両手となりふり構わず、足場を滑り落ちるのも厭わずに乱雑な拳を振り下ろした。
だが、すでにユニアとゼウムは祭壇まで引き返していた。
押し潰すべき対象を見失い、無様に暴れ狂う怪物は勝機を逸する。
初めから三人を力任せに屠る気であれば、人間が小虫を踏み潰すような体格差によって、こちら側に勝つ術は存在しなかった。
知恵と工夫。人間のたゆまぬ努力が、未曽有の怪物に打ち勝った瞬間である。
「や、やったのか」
ひとしきり苦しんだ双頭の巨人が、その場で崩れ落ちていく。
四肢をだらんと弛緩させて、水泡に包まれた赤い両眼は白目に変わっていた。
「この巨人が、千年の災いの元凶?」
ユニアはどこか釈然としないように、顎に指を宛がっている。
「何はともあれ、これで大自然の怒りは治まったのかな」
セクトは術代を解除し、分け与えた自我を己の内に戻す。
揺り戻しが起きなければ、消耗することもない。存分に活躍してくれた水蝶に感謝し、額に取り込まれていく己の自我の輝きを受け入れる。
【――孤独なる器。今ここに至れり】
「……ぅぐっ!」
セクトの脳裏に、目まぐるしい閃光が瞬いた。




