第三十話 「覆水は返らない」
霧の晴れた二首沼に、悍ましく密集する怪物の群れ。
水であり、土であり、枝であり、石であり、泥であり、全ては自我である。
零れ人は片腕など身体の一部を変質させて、槍や斧、剣に弓の形状を握り込んでいた。
戦士の槍や伐採の石斧は別として、その他の武器はガレーネ島には存在しない。
零れ人の正体が、ソリトゥードの民の先祖が零れ落ちた自我だとすれば、その存在を知る由もない得物を扱っていることになる。
そんなことはあり得なかった。
今際の際に、セクトは周囲の零れ人を形成する自我の正体を察した。
「そうか。砂浜に現れたのも、ここにいる彼らも、難破した船の……」
一人の少女の顔が脳裏に浮かんだ。
この状況を知ったら、きっと彼女は悲しい顔をするだろう。
二度も辛い思いはさせたくなかった。
せめて彼女が、彼らの姿を見ないことを祈る。船でガレーネ島を脱出し、あわよくば妹たちも連れて行って、滅びの運命から逃れることを。
「……どうか、無事を」
誰にともなく、セクトは希った。
「――零れ人。貴方たちに、許しを与える謂れはない」
淀んだ大地に、清澄なる響きが伴った。
セクトとゼウムは、ハッと目を見張って零れ人の壁の向こうに意識をやる。
二首沼の入口より、ぬかるみを蹴散らして疾走するは一頭の駿馬だった。
その背に乗ってこの場を駆け巡るは、全身を鈍色に包む怪物の如き人型。甲高い音を掻き鳴らし、片手で馬の頭部から延びた紐を操りながら、見事に騎乗をこなす。
「な、何だありゃあ! 新手の零れ人か!」
絶体絶命の窮地に、ゼウムは驚愕が勝って素っ頓狂な反応を示す。
「いや、あれは!」
セクトは鋼鉄を纏う存在に、ある少女の面影を見た。
十体規模の零れ人の群れは闖入者に対して、鋭く意識を裂いた。
果敢な人馬から放たれるは、二人の少年を遥かに上回る、烈火の如く盛んな自我。煮え滾る闘志を前に、それを最優先で排除すべき脅威と認識し、馬上の騎士は狙われた。
枯れ枝で構成された頭部を、弓矢に変えた零れ人が一射を放つ。
零れ人は視覚で対象を認識しない。人間の持つ自我の輝きに合わせて引かれた弓から、馬の疾駆に沿った偏差的な技巧が繰り出される。それは精密にターゲットを狙い澄まし、全身鎧の隙間である首筋を的確に射貫かんとした。
「……ホルディ。貴方の射は、いつだって的を外さなかった」
引き抜かれた長剣が、首元の旋風を弾く。
すでに手元から離れた矢を避けることは不可能に近い。確実にそこを狙われると信じていなければ、到底真似できない芸当だ。
弓兵を目指す馬影の前に、三体の零れ人が立ち塞がる。
左右それぞれ利き手とおぼしき手の平に、もう片方の腕を変異させた武器を振りかざした。
「アゴーナス、ペトゥロマ、リオニダ」
機敏な動作で、敵は三位一体となって襲いかかる。
されどそこに連携というものはない。各々が好き勝手に攻撃する振る舞いは、在りし日の面影すら感じさせない烏合の衆だった。
騎士は騎乗から剣を振り下ろし、三者の首を瞬く間に斬り落とした。
「本来なら、ワタシに勝機はなかった」
弓の連射をかいくぐり、騎士は左右から挟み込む二体を見やった。
「ダリオスは実家の自慢ばかりで、フィリモノは奥さんの話が長くて」
手綱を引いた瞬間、馬が後ろ足で立ち上がった。
勇猛な立ち姿を前にして、一切怯むことなく斬りかかる石の剣に踏馬が炸裂する。得物を叩き折られた隙に、騎士の一閃が両者の胴体を寸断した。
再び走り出した馬の疾走に、追いすがる一影。
【……置いて……行かないで……】
後方に飛びつく小柄な泥の身体。
片足を短剣の形状に変えて、騎士に挑みかからんとする。
しかし大きく震える駿馬の総身。尾を掴んでいた手が振りほどかれて、同時に後ろ脚がその全身を隈なく蹴散らした。
疾走が旋回に変わり、地面に這いつくばった小さな身体に、騎士の剣が食い込む。
「マルセリ……まだ見習いだった貴方は、ワタシよりも年下で……」
柄を握る手の平に、強い力が籠る。
騎士は頭上の異音を聞き洩らさなかった。
「あの華麗な剣技が見る影もない、スティリオ」
古木の上から強襲する刃を受け止めて、正中線に剣が振り抜かれた。
次々に敵を切り捨てて、ようやく辿り着いた弓兵の前に、槍を構える水泡の零れ人。
汚水の身体は、小刻みに震えてプルプルと水面を湛えていた。
「エヴアンジェ。修導医士の貴方が、もう武器を待たなくて良い」
立ち筋が見えないほどにさり気なく、切っ先は水泡と枝を依り代とした、二体の怪物の胸を貫いていた。
そして騎士は馬上を降り、最後の自我と向き合った。
「ダフネ副団長」
【任務を、全う……しなければ……】
漆黒の土を押し固めた刃に、輝きは灯らない。
片腕で振るわれる剣と、騎士は結び合った。
二度と帰らぬ日々を想うように、一合、一太刀に込められた自我を噛み締めて――
「貴女は、ワタシの憧れでした」
騎士は終幕の否定をぶつけた。
ザシュッ、と鋭角に食い込む剣筋が、零れ人に引導を渡す。
【……手間を、取らせたね……】
零れ人に意思はない。
末期の台詞も、果てなき世界の自我が聞かせた幻だったのかもしれない。
それでも騎士は前を向き、胸の前に剣を掲げた。
失ってしまったものを数えないように。
零れ落ちた自我を認めないために、虚空へと向けられた、最大限の敬意であった。
「つ、強すぎる。お前は、一体」
「……君は。そこまで、強く……」
戦いが終決し、二人の少年から向けられる各々の感情。
そこに、騎士は新たなる決意を抱き――
「ワタシの名は、ユニア・ハンダルジスタ」
正真正銘の己を顕示した。




