第二十七話 「洗礼」
鬱蒼と茂る森林は、青ではなく藍に染まるようだ。
日の出を迎える東の方角に在り、その土地は年中瘴気が漂っている。
元凶は二首沼と称される巨大な湖にあった。白濁とした水面に、淀んだ泥が沈殿し、決して奥底が見通せない。玉の如く浮かんでは弾ける水泡が悪臭を含み、禍々しい濃霧を周囲に振り撒いた。曰く、怪物の口臭と呼ばれるほどに、生き物を遠ざける大自然の汚濁だった。
ひとたび道を見失えば、マグヌスの森の比ではない混沌を極めることになる。
さらには人間を求めて彷徨い歩く、零れ人の発生地。
歴戦の戦士でさえ、入口周辺で零れ人を討伐するのが関の山であった。
「――臭いし、前が見えづらいし。いつ来ても最悪だな、ここ」
槍を構えながら、ゼウムが愚痴を零す。
セクトもその意見には同意だ。獣の糞尿や腐った魚の内臓を煮詰めても、ここまで鼻孔を犯す臭気にはならないだろう。布で口元を覆っても、ほとんど効果がない。普段中央平原から、遠巻きに眺めるだけだった土地の内部は、想像を絶する気持ち悪さが広がっていた。
しかしどれだけ風向きが悪くても、ウィルクスまで悪臭が届いたことはない。
二首沼を包む濃霧が、内なる醜悪を全て封じているようだった。
「長老とおばば様は、奥に扉があるって言ってたよね?」
「ああ。親父たちはそこに入って怪物と戦ったらしい。だけど戦士たちが負傷して、それを逃がすために二人で残ったんだ」
「父さんたちがここに来て、今日で四日目……生きてるとしたら、どこに」
「案外、とっくに怪物倒しちまって、その場で動けなくなってるかもな。ハハハ」
ゼウムは乾いた笑いで不安を誤魔化す。
望みが薄いのは端から承知していることだ。
それでも一縷の希望に縋り、二人は族長たちの生存を信じて濃霧の中を突き進む。
獣道は湿地帯を含み、ところどころ足元がヌメヌメぬかるんでいた。
朽ち木が足背に引っかかり、腐土が靴底に纏わりつく。浅く沈み込む泥場も存在し、重心ごと踏み外すような感覚が常時神経をひりつかせた。
ここで零れ人に襲われれば、確実に動きが鈍る。
戦力に乏しいセクトが生き残るには、塵芥に等しい幸運を手繰り寄せる他なかった。
「セクト、聞こえるか?」
ゼウムの足が止まる。耳を澄ませば、前方に水の滴る音。
ぽた、ぽた、と。濃霧の中から何かが近づいて来る。
「……やっぱり、無事に抜けられそうにないね」
「気張れよ、セクト。お前は、あのお遊戯――いや」
一度命を救われたゼウムはもう、セクトの唯一の取り柄を信頼していた。
「術代で援護しろ!」
先手を取って、ゼウムは黒曜石の槍で前方を引き裂いた。
「何ッ!」
しかしゼウムは途中で急停止し、足元で泥が飛び散る。
正面には、二首沼の象徴である巨大な池が広がっていた。敵が立つべき、足場が存在しなかった。すかさずセクトとゼウムは周囲を警戒する。
この霧のどこかに零れ人が潜んでいるはずだ。
決して取って代われぬことを知らず、現世での肉体を求めて人間を襲う存在が。
――ちゃぷん。
再び沼が波紋したとき、セクトの視界にごく小さな影が降る。
小石だった。
「……っ、敵は木の上にいる!」
セクトは沼の近くにそびえる、一本の枯れ木を見上げた。
直後、二人目がけて複数の石片が乱れて弾ける。
「伏せろォッ!」
ゼウムの張り裂けんばかりの声量に押され、セクトはとっさに身体を屈めた。
二人が耳にしたのは、零れ人が沼に小石を投げ込む音だった。赤褐色の岩を人型に整えた、狂気の自我に支配された怪物。
零れ人はその身を削って、セクトとゼウムに攻撃を仕掛けてきた。
腕を振るう動作で、指先から次々に放たれる砂礫の驟雨。一つ一つの威力は低いが、断続的な痛みが二人の気力を着実に削いでいく。
「クソっ、どうする! あんなとこ居座られちゃ、手出しできねえぞ!」
「投擲は! ゼウムの腕力なら、あそこまで届くんじゃ!」
「駄目だ、威力が弱まる! あいつの自我を、圧倒的にねじ伏せられなきゃ意味ねえ!」
「ううん、それで良い! これを使って零れ人を引きずり落とすんだ!」
セクトはルキの槍をゼウムに放った。
ただの石槍で柄も短く、戦士の武器としては心許ない。しかしその重量の軽さは、遠距離を得意とする敵への対抗策となる。
「ボクが気を引く! 頼んだ、ゼウム!」
セクトは石雨の切れ間を見計らい、素早く立ち上がった。
零れ人の戦い方は、長引くほどに己の体積を減らしていく。
付近に依り代の素材があれば補給されてしまうが、古木の上では岩場も存在しない。
右腕を撃ち尽くして、零れ人は赤褐色の岩で構成された左腕を構える。
けれどその戦闘方法こそが、セクトが囮役を買って出られる追い風となっていた。
「羽ばたけ、蝶よ!」
地面に撃ち込まれた大量の砂礫に、セクトは術代を発動させる。
零れ人の右腕の体積を使用した、赤褐色の石蝶。強固な羽は敵のつぶてを防ぎながら、セクトたちの正面に死角を作る。
ありふれた一瞬で構わない。
この好機に、本命さえ通せれば――
「行くぜぇッ!」
それで決着はつく。
白き霞を掻き消す一直線。石蝶の羽が閉じた刹那、間隙を縫ってゼウムの投擲が、零れ人の眉間を貫いた。
しかしまだ敵の自我は敗北を認めていない。
現世に留まらんとする自我は、偏執と化してこの世界にしがみつく。
認識してはいけない。
肯定してはいけない。
存在させてはいけない。
あらゆる否定を込めた一撃こそが、零れ人を現世より解放する。
「我、戦士ゼウムの名において言うぜ! オレはお前を、ぜってぇに――」
泥を蹴り上げ、古木から落下する零れ人に肉薄。
左手に握り込んだ黒く研ぎ澄まされた刃が、怪物の胴体を真横に一閃する。
「許容しない!」
振り抜き、返す刃で斜めに斬り裂いた。
パァン、と石造の身体が弾け飛ぶ。
ゼウムの自我が、零れ人の自我を上回った証だった。
ルキの槍が地面に落ちる。それをゼウムは拾い上げて、セクトに手渡そうとした。
「ほらよ」
「ううん、ゼウムがそのまま使って。やっぱりボクは、槍よりも術代の方が合ってるから」
「ふーん、そうか。んじゃあ、ありがたく使わせてもらうとすっかな」
ゼウムは二槍を交差して背に掲げる。心なしか、武器が弾んでいた。
戦闘を終えて、セクトは巾着から傷薬を取り出す。身体中のあちこちに、打撃と擦り傷ができていた。ゼウムも持参した薬草を傷に塗っている。
「たった一体にこの調子じゃ、先が思いやられるな。でもまっ、これでオレの御印が二つに増えたぜ。この歳で二体も倒したのはオレだけじゃねえか?」
「浮かれるのは早いよ。だって、ボクが追い越すかもしれないし」
「おっ、言うじゃねえか。なんだかんだ調子出て来たな、オレたち」
「はは、そうだね。零れ人が一気に襲ってくるかもしれないと思ったけど、一体ずつならボクたちでも何とか――」
そのとき、ボト、と何かが落ちた。
途端、セクトの額に深いしわが刻まれる。
「おい、どうしたセクト?」
セクトの異変に、ゼウムが怪訝を示す。
「ゼウム、ここから逃げた方が良い」
「は? いきなり何言い出すんだよ」
「……いや、もう遅いかな」
セクトは悟った。すでに逃げ道が失われていることを。
それは、術代が意図的に破壊されたときに生じる、揺り戻し現象だった。
出しっぱなしにしていた石の蝶が、その身を朽ちさせるように地へ堕ちていた。そしてこれを行ったのは――
「な、何だ、急に霧が晴れて……」
二人の周囲からサーッと濃霧が引き、徐々に視界が晴れていく。
二首沼の全体像は外周の藍色の森林と、内部の無数の枯木立に取り囲まれた湖。
そして湖畔に建てられた、石造りの祠から成り立っていた。
「走るんだ。ゼウムの足なら、万が一にも――ボクのことは、置いてってくれ」
「ふざ、けんなよ――」
この深い霧は、初めから蜘蛛の巣を彷彿とさせていた
纏わりついて離れない靄に、粘着性のある地面。足を踏み入れた者を、決して逃がさない狩場だ。さながらセクトとゼウムは、巣にかかった獲物。
今まさに、巨大な捕食者に蹂躙されるだけの哀れな蝶であった。
「ふざけんじゃねえぞォッ! クソッタレがァッ!」
一帯を取り囲む零れ人の集団を前に、空しき絶叫だけが轟いた。




