第二十五話 「胎動、そして産声」
ガレーネ島を捨てて海に出る。
それはほとんどの者に馬鹿げた話だと一蹴された。
ソリトゥードの民に、危機が訪れていることは誰もが理解している。
しかし目に見えた脅威は現状少ない。千年をかけて根づいた生活を、簡単に捨てられないのは当然だ。ましてや死の岩礁地帯を抜けて、外海に飛び出すことは不可能に近い。それも身をもって船出に失敗したことのあるセクトの弁に、賛同する者がいないのは仕方なかった。
よしんば、幸運に恵まれて外の世界に辿り着いたとしても、新天地で暮らすことは難しい。
革新派とは名ばかりで、彼らも結局はガレーネ島という閉鎖された土地の一員。滞った空気は、少しずつ淀んで人々の自我を蝕んでいる。
本当は誰もが恐れているのだ。
新しいものを受け入れることを。
安定という現在を捨てて、未知なる未来に進み出すことを。
セクトはそれを愚かだとは思わなかった。人として当たり前の恐怖だからだ。
されど、だからこそ彼らの停滞した生き方は――祖父プンクトにとって、決して認められないものだったのだろう。
「――爺ちゃんは、どうしてまたこの島に戻ってきたんだろ」
セクトは一人で砂浜の残骸を眺めて、新しい船を作る構想を練っていた。
ユニアが乗ってきたはずの巨大な船を造船する技術は、当然ながらガレーネにはない。
けれど、どれほど立派な帆船を浮かべようが、常に海流が渦巻く場所を通過することは厳しいはずだ。
ただ、裏を返せば小規模の船なら、渦潮の隙間を抜けられる可能性はある。
プンクトもユニアも、無傷の小舟で死の岩礁地帯を通り抜けた。
もしかしたら、渦と渦の間に僅かな安全航路があるのかもしれない。それは命がけの綱渡りかもしれないが、唯一の活路があるとすればその一点だけだった。
「……待てよ。魚の術代を放てば、その海路を見つけられるんじゃないか」
セクトの閃きは、希望に繋がるか細い糸を手繰り寄せた。
実はガレーネ島の外に、セクトは何度か自分の術代を飛ばしたことがある。しかし空からの景色では、どうしても死の岩礁地帯を通り抜ける方法を見いだせなかった。
考え方を変えれば、空からではなく海からなら、解決の糸口が分かるかもしれない。
「そういえば、ルキの術代は魚だったな。ルキに頼めば――あぁ、駄目だ。熱で寝込んでる」
術代の象る動物は個人によって変わるものだ。
戦士たちは術代をお遊戯だと思っているので、これを依頼するのは半ば侮辱に当たる。
女性や老人も、大人になるほど術代を使う機会が減っていた。
術代も鍛錬しなければ衰えて力が弱まっていく。沖合まで泳げる魚を作り出せる者は、現状一人もいないと思われた。
残るは子供だけだが、以前セクトは長老に頼まれて術代の教導をしたことがある。
そのとき確認した限り、魚の術代を使えたのはルキだけだった。
「もしもガレーネ島が滅びるなら、妹たちだけでもボクは……だけどルキの熱が、ほんとに大自然の怒りによるものだったら、たとえ外に連れ出しても……」
酷く不吉な考えが脳裏を過ぎり、セクトはぶるりと身震いする。
「何考えてんだ……そんなことあるはずない……あって良いわけがない……」
悩むほどに、思考が悪いことをばかり想像してしまう。
セクトはかぶりを振り、気持ちを正すように大きく深呼吸した。
「大丈夫、ボクはやれる。なんたって、戦士アングの息子だからね」
脈打つ鼓動に手の平を当てて、セクトは昂る自我を静めた。
――ゴ、ゴ、ゴ。
そのとき、セクトは自分の身体が揺れる感覚がした。
まだ落ち着けていないのだろうかと思った矢先、はたとして海を見やる。
波が、揺蕩っていた。
海が荒れ、大地が震える。
ペカ・オリギナ山が、異常な音を立てて鳴動していた。
「あれが大自然の、怒り?」
生まれて初めて目の当たりにする、独立峰の異変。
セクトはそれが、果てなき世界の自我が発露する激情ではなく――
「いや――目覚め、か」
途方もない、何かの産声のように感じられた。




