第二十三話 「二人きりの黎明」
明け方の空に、朝日は差さない。
冥色を跳ね返す水平線。静かな波の押し寄せる砂浜に、セクトは佇んでいる。
昨晩はこれまでの人生で、最も寝つきが悪かった。嫌な寝汗で全身がぐっしょりとし、すぐ横で寝ている母と妹たちを起こさないように床を抜け出した。
ウィルクス内も静寂に包まれており、うっすらと朝靄のかかる景色はいつになく新鮮だった。
冷え込んだ空気が、火照った身体を落ち着けてくれる。
波打ち際の奏でる安らかな音は、母の子守歌の如き眠りを誘うようだ。
セクトは泡沫の心地に薄眼を開いて、ぼんやりと歩き出していく。
夢を見ているようだった。
この場所に、自分は一人だけだ。
世界には、他に誰もいないのかもしれない。
虚ろな孤独に誘われて、セクトは大いなる海に身を委ねる。
このまま、そっと世界からほどけてなくなってしまうことを、望むかのように――
「――セクト」
誰かの声が、セクトを呼び止めた。
気がつくと、足元を撫でるような冷たさが駆け上ってきた。家を出るとき裸足だった。触覚への刺激が背筋をピンと張らせる。
「……ユニア?」
振り返れば、そこには彼女の姿があった。
僅かに昇り始めた陽を受けて、一本に結ばれた金色の髪が、鮮やかに色めいていた。
「まだボクたちの服、着てくれてたんだね」
彼女の服は昨日の内に返したが、ユニアの恰好は現地のままだった。むしろそちらに見慣れてしまったので、元の衣装に戻ったら違和感を覚えるかもしれない。
「……良い?」
ユニアは細く訊ねながら、受け答えを聞く前に歩み寄って来る。途中で靴を脱ぎ捨て、セクトの真似をするように裸足となって浅瀬に入水した。
「セクト。大丈夫?」
だいぶ耳慣れてきた問いかけで、ユニアがセクトの表情を伺う。
「うん。大丈夫だよ」
それは紛れもなく強がりだった。
ガレーネ島の言語が、彼女に伝わることはない。父を失った悲嘆を言葉に乗せたところで、ユニアに理解はされないのだ。
今も悲しみに耐え続けている母や妹、義叔母に従兄。
決して彼女たちに発散できない苦しみを、ここで打ち明けたところで誰が責められようか。
あらゆる本音を曝け出して、楽になってしまえば良い。
その資格はあるはずだった。
「ユニアは散歩?」
しかし、セクトはそれをせずに話題をすり替えた。両腕と足を振る仕草で、彼女が早朝に出歩いている理由を訊く。
セクトは少女の前で格好をつけたかったわけではない。
ただでさえ半人前の自分がここで弱音を吐いたら、二度と一人前の戦士になれる気がしなかった。理由など、その程度の独りよがりに駆られたものだ。
「気になった、ウィルクス。夜、眠れない」
ユニアは拙い単語を繋ぎ合わせ、懸命に答えてくれる。
彼女も昨日の騒ぎは知っていた。けれど何が起きているのかは分からない。だからこそ、不安を募らせて心が落ち着かなかったのだろう。
「そっか……」
彼女はきっと、セクトと同じ心境で起き抜けたのだろう。
そして、はたとセクトは、これまでユニアの気持ちを知ろうとしていなかった事実に気づかされた。
思えば自分はプンクトの手帳に記された、外海の言語の一部を読み上げられる程度の知識しか持っていない。最初はユニアに伝わったことが嬉しかったが、途中から間違っていたらどうしようと、積極的に使うことを避けていた。
だからユニアにばかり負担を負わせてしまった。
たった一人でガレーネ島に流れ着き、心細いはずの彼女に、いつの間にか自分たちの言語への対応を強いていたのだ。
セクトは己を深く恥じた。
ユニアの本当の言葉を、一度も聞こうとすらしていなかった自分自身に腹が立った。
彼女のためにと言い訳を重ねて、ソリトゥードの民の決まり事を押しつける。
それは革新派も保守派も関係ない、ガレーネ島という閉鎖空間に染まりきった、有象無象の一人の自我だったのだ。
「今さらこんなことに気づくなんて……ほんとに、ボクは半人前だよ」
セクトはユニアに背を向けた。
彼女に顔向けできなかった。いつだって己のことに手一杯で、他人を想いやる気持ちを持てない自分は、何者にもなる資格はないのだ。
族長や副長は元より、一人前の戦士にすらなれるはずもなかった。
「――セクト。貴方は、優しい」
そのとき、ユニアがセクトの肩に手を置く。
軽く力を加えられて、されるがまま、セクトはユニアと向き合った。
真正面に見据えた少女は、吸い込まれそうに美しい碧眼を称えている。あらゆるものを包み込んでくれる、大いなる海のような自愛が込められているようだった。
「貴方は、ワタシ、助けた。とても立派。だから、辛い、我慢、いけない」
たどたどしくも、想いの籠められたユニアの言葉。
彼女が自身の胸に手を当てて示すものは、自我であり心。
曇った眼差しでは見ることの叶わない、セクトに抱く本物の気持ちだった。
「ユニア……君は」
セクトの目元に、くすぐったく伝う感覚があった。
ユニアの指だ。自分でも知らない内に、溢れ出るものがあったらしい。視界の歪みかけた両目に腕を擦り、セクトは大きくかぶりを振った。
「ごめん。やっぱりボクは情けないままだ。でも君のおかげで――……ううん」
口にしかけた自我を飲み込む。
「ありがとう、ユニア」
セクトはユニアの用いる外海の言葉――彼女本来の響きを、自らの唇に震わせる。
それはプンクトの手帳に記されていた一説にあったものだ。
『とてつもない恩を受けた女性と出会ったとき、この言葉をもって感謝を伝えなければならない。それが男としての礼儀だ』、と。
「貴女はボクにとって、この生涯を懸けるべき運命の人です」
その意味は、知らない。
「セ、クト……」
ユニアは、以前手帳の単語を伝えたときのように呆けた表情をした。
あのとき、花のように微笑んだ彼女の表情。
セクトは笑われたと思い、外海の言葉を多用するのをやめてしまった。だが今ならば、あれはユニアの気持ちが、この島に辿り着いて最も安らいだ瞬間だったと理解できる。
それゆえに、セクトはどのような反応をされても受け入れる自信があった。
「…………ばか」
罵倒は想定外だった。
しかもしっかりと、ソリトゥードの民の言語である。ルキやゼウムが使っていたのを覚えてしまったのだろうか。
セクトは面食らってしまい、半ば放心状態となった。
ちょうど空に昇り始めた朝日が二人を照らす。
ユニアの頬は、ほんのりと朱に染まっていた。




