第一話 「ガレーネ島」
遥か地上を見下ろすように、一匹の蝶が空を飛んでいる。
雲一つない温かな気候。ガレーネ島は見事な快晴に包まれていた。
耳を澄ませば大空の羽ばたき。
夏鳥たちが連なって、海岸線沿いの上空を舞う。
砂浜に青い羽をまき散らし、雄大な旅の終着を祝うように歓呼の歌声を奏でた。
そのまま一群は北の独立峰を目指していく。中央平原を超えた林麓で卵を産み、雛を育てるのだ。
島民の暮らす集落ウィルクスにも、目覚めの音色が告げられる。
高床式の住居から、次々と姿を現すのはソリトゥードの民。ガレーネ島における唯一の部族にして、始祖の時代より向こう千年を大自然とともに歩んできた。
彼らは健康的な小麦色の肌に、深紅の瞳を称えている。
そして羊毛と麻を編んだ上下の装いは共通するが、ひときわ存在感を誇っているのは、屈強な筋肉を有した男たちだ。
胸元や手首に、紐で巻きつけた貝殻の数珠。
大半の男は五個前後を通すのみ。だが、ウィルクスで最も大きな家から現れた男は、複数の乾いた音を響かせながら広場に出向いた。
胸元、手首に加えてさらには腰回り。ざっと見積もっても、三十を超える印が打ち合った。
男たちは敬意を示すように、広場で横並びに整列して彼を出迎えた。
「――おはよう、戦士諸君。全員揃っているな」
威厳ある族長は一同を見比べて、小さく頷きかける。
そこでハッとしたように広場を見渡した。
「数人の姿が見当たらないな」
「副長たちでしたら、一足早く見回りに出かけました」
「……そうか。彼らの勝手はいつものことだ。好きにさせておこう」
体裁を保つためか、族長はピンと背筋を正した。
「あと、ご子息も海岸に飛び出して行きましたよ。昨夜、外海は大嵐でしたから」
しかし仲間の一人がそう報告した直後。
「ああ――我が息子セクトよ。お前まで独断行動するんじゃない」
深い嘆息とともに、族長は大きく肩を沈ませるのだった。
セクトは首を捻っていた。
ガレーネ島は常に一定の天気が保たれている。
夏には雨が、冬には雪が多少降ることはあっても、島全体を飲み込む悪天候に見舞われることはない。ガレーネという言葉は凪を意味するのだ。その代わり、島民が死の岩礁地帯と呼ぶ沖合の向こう側では、ときおり大自然の猛威が大海原をかき乱す。
その様子は海岸線沿いのウィルクスからも望め、古来より不吉の前兆として恐れられた。
一方で、大嵐の直後は浜辺に漂着物が流れてくる。
外海に存在するとされる異邦の人間。彼らが生み出した、何らかの文明の痕跡が、大海原の中心に位置するガレーネ島に運ばれる。
「これは船かな?」
夏鳥たちの青い羽根に混ざって、海岸を覆い尽くす木造の残骸。
木箱や樽が流れ着くのは珍しくもないが、その個数が尋常ではない。
嵐で損傷したのか、どれも鋭利にささくれ立っている。
片手で掴めるものから、身の丈を優に超えるもの。大人が数人がかりでないと、運べないような大きさまで様々だった。
孤高の部族であるソリトゥードの民には掟がある。
外海の品々は全て不浄の異物。発見し次第、再び海に還すのだ。
しかし外海の品々はガレーネ島にはない、面白味のある文化が反映されている。
そこで革新派の当代の族長――セクトの父アングは新たなルールを設けた。
先んじて自警団が確認し、危険がないと判断された代物のみ、欲しい者が持っていくことを許される。外海の品に興味を持つ島民は割と多かったのだ。
「あっ、おかえり」
おもむろにセクトは、そっと右手を伸ばす。
皮手袋をはめた指先に、青く澄んだ一匹の蝶が止まった。
途端、泡が弾けるようにパチンと蝶が形を崩した。
世界からほどけた蝶は、青い光を一筋の糸に伸ばし、セクトの額に溶け込んでいく。
セクトの脳裏に、大雑把なイメージが浮かんできた。
「冬鳥から日昇の方角にかけて散らばってるなあ。渦潮でこっちに流れたのか?」
残骸の発生は島の北東方面。冷静に分析しながら、セクトは木片を漁り始めた。
本当はゆっくり調査したいところだが、早く済ませないと自警団が見回りに来る。
せっかく早起きして父を出し抜いてきたのだ。危険な代物と判断されて破棄される前に、外海の情報に繋がる品を見つけたかった。
それが、ソリトゥードの民の歴史上たった一人。
死の岩礁地帯を抜けて、外海の地に降り立った、祖父プンクトとの約束だからだ。
「何か良いものないかなあ」
セクトは浮かれ気味に、手あたり次第に木片を転がす。
砂に埋まった貴重品などがないか、自警団が来る前に素早く確認したかった。
「おっ、綺麗な石。爺ちゃんの日記にあった、ガラス玉ってやつか。ルクーリにやったら喜びそうだ。そういえば、この時期はルキが羽を集め出す頃か。ついでに拾ってやるかな」
二人の妹の顔を思い浮かべつつ、セクトは作業を進める。
セクトは自警団の戦士たちのように、屈強な肉体を持っていない。少し大きめの木箱や樽にも苦戦する始末だ。
「父さんたち、まだ来ないよな? 笑われる前に、さっさと済ませちゃうか」
セクトは膝を折り、右手で軽く砂浜を撫でた。
その瞬間、地面に生み出される茶色の光陣。
手の平ほど円は一層輝きを増し、セクトが皮手袋をはめた右手を滑らせると、ぶわっと小規模の砂塵が舞い上がった。
これを発生させていたのは、光陣から現れた一匹の蝶である。
先ほどの水泡の蝶とは異なり、全体に白砂を帯びていた。肉体や構造を形成する全ての要素が、砂浜そのものと言っても過言ではない。
「あそこら辺、綺麗にしてくれるか?」
セクトは小さな竜巻を起こす、砂の蝶に指示する。
蝶は己が意思を持つように羽ばたき、散らばる木片を巻き込んで一か所にまとめた。
人の血と樹液を編みこんだ麻糸で、獣の皮を結んだ皮手袋。
そこから生じる〝術代〟は、ソリトゥードの民が有する大自然との調和法だ。
己の〝自我〟の欠片を分け与えて、水や砂などを生き物の形に昇華させる技である。
しかし実践では槍の刺突に速度で劣り、術代はか弱き存在の児戯とされてきた。戦士たちの間では、武器もまともに使えないセクトは、まだまだ半人前の烙印を押される。
民の中で最も速く光陣を展開できても、子供の背伸びとして戦士に認められることはない。
「こんなに便利なんだけどな、術代。そろそろボクだって、〝零れ人〟と戦わせてもらっても良いと思うんだけど。ねっ、そうは思わない?」
セクトは白砂の蝶に独り言を募った。
しばらく木片を掃除したあと、術代の化身は姿形を消失させる。
役目を終えると淡い光と化して、自我を分け与えた当人の元に還るのだ。その際、うっすらと術代が見た景色のイメージが脳裏に浮かぶ。
くっきり認識できるわけではないが、周囲の情報収集をするには割と便利だった。
目当てのものはなかったが、ついでにかき集めた夏鳥の青い羽を腰の巾着に放り込む。
羽は素材として、ウィルクスの道具屋がよく集めていた。妹もその手伝いをしており、衣類や装飾品として加工してくれる。粗末な木片たちも、よく乾かせば薪代わりだ。
「さて、と。次はあっちの大きいのを――」
「――ん、うぅ」
そのとき、セクトは奇妙な音を耳にした。




