第九話 「青い瞳の少女」
昨夜は十分に寝つけなかった。
長老の元で、ソリトゥードの民が滅ぶかもしれないと聞かされたせいだろう。
ガレーネ島のシンボル、ペカ・オリギナ山から真っ黒な闇が押し寄せる夢を見てしまった。人々が逃げまどい、阿鼻叫喚の中で深淵に飲み込まれる。
父も、母も、妹たちも、全てが消えていた。
そしてただ一人、セクトだけが暗黒の中で立っている。
あまりにも不吉な悪夢だった。
「――わーっ」
寝室の外で妹の声が響いた。
ふと左右の寝床を見やると、家族が一人もいなかった。どうやら珍しく、セクトが最後の起床だったらしい。木窓から差し込む朝日が、いつもより眩しく感じる。
「兄ちゃん、兄ちゃん!」
先ほどの声量そのままに、ルキがドタバタと駆け込んで来た。
「……どうしたんだよ、こんな朝っぱらから」
寝ぼけ眼を擦り、頭の中を直に叩き起こされる感覚でセクトは訊ねる。
「いいから、兄ちゃんこっち!」
「えっ――おわっ!」
ルキはセクトの腕を引っ張り、寝床から引きずり出す。
連れられるがまま、セクトは居間を抜けた。鼻孔をくすぐる香ばしい匂い。無言で朝食を食べている最中のアングを素通りし、 普段は物置に利用している別室に入った。
そこには、すでにオーワとルクーリがいた。
「母さんたち、こんな場所でどうしたんだ?」
「あら、まだ寝ぼけているの? 昨日、貴方が見つけてきた子が目を覚ましたのよ」
「でもちょっと様子が変なの、お兄ちゃん」
二人の隙間から、セクトは奥を覗き込む。
臨時に設けられた寝床では、金髪の少女が上半身を起こして俯いていた。妹たちの服は小さいので母の服を着ている。
「まだ具合悪いっぽいんだ。兄ちゃんなら、何か分かるんじゃないかと思って」
「何でボクなんだ? 癒し手なら、ルクーリの方が得意だろ」
「わたしができるのは、傷を塞ぐだけだもん。お兄ちゃん、お爺ちゃんとよく話してたから、外海の人のことも詳しいんじゃないかなって、ルキちゃんが言い出して」
「さすがにそこまでは知らないよ。父さんはなんて言ってるんだ?」
「パパはダメ。ぜんぜん役に立たないし、顔怖いもん」
「うん。お父さんが来てから、余計にこんな風になっちゃったの」
「あの人には悪いけど、セクトお願いできる?」
「……それで一人で食べてたんだ」
族長として頼れるはずの父の背中が、少しだけ小さく見えた。
ひとまずセクトは、居間の棚にしまっていたあるものを取り出してくる。
厚い牛皮に羊皮紙を束ねた祖父の手帳。
ガレーネ島には存在しない紙の記録媒体。ここにはプンクトの辿った、外海の足跡が細かく記されている。
まだ全ては解読できておらず、祖父もほとんど内容は教えてくれなかった。
それでも少しずつ解き明かした成果が、ようやく日の目を見るときがやって来た。
セクトは少女の傍らに座る。目線を合わせようとしたが、彼女は少しだけこちらに意識をやり、すぐに外してしまった。
体調不良というよりも、こちらを警戒しているのかもしれない。
「えっと、おはよう。具合はどうかな?」
「……」
セクトが軽く挨拶すると、少女は無言で首を横に振った。
その態度に、もしかしたらと思い、セクトはある試みを行ってみた。
「――っ、――っっ、――っっっ」
「兄ちゃん、今何て言ったんだ?」
「外海の挨拶だよ。たぶん言葉が通じないんだ」
外の世界には、複数の言語があるらしい。それらはどれも、ガレーネ島で使われている言葉とは異なっているようだ。
セクトはいくつかの挨拶を試し、ある一つの言語に辿り着く。
「君はお元気ですか?}
「……っ!」
びくりと、少女の肩が震えた。
これまで何を言っても反応しなかった彼女は、初めてセクトに顔を向ける。
セクトはハッと意識した。
あのとき見た、輝く海のように澄んだ、とても綺麗な瞳がこちらを覗き込んでいる。
「――ありがとう。貴方はどう?」
そして、少女は口を開いた。
母や妹たちは、彼女の言葉を聞き取れずに困惑している。しかしセクトは、祖父の手帳に記された通りの返しが行われたことに感動した。
セクトは興奮を押し隠すように、すかさず返事をしてみる。
「あー、何て書いてあるんだっけ。たしか、そう――大丈夫。ありがとう。良い天気だ。お腹空いた。今夜どう?」
「えっ」
意味が通じたのかどうか、少女は大きく目を見開いた。
一瞬、放心するようにセクトを見つめたあと。
「ふふっ」
少女は花のような笑顔で微笑んだ。
見知らぬ土地で、会話が通じたことが嬉しかったのだろうか。
それとも、セクトの言葉に誤りがあって、可笑しかったのか。
ひとしきり感情を曝け出すと、少女は淀みない発音で何かを伝えてきた。
「――っ、――――っ、――っ」
しかしセクトは、その意味を理解できなかった。
「ご、ごめんよ。ボク、会話ができるわけじゃないんだ。書いてある言葉を読んだだけで」
「……?」
セクトがガレーネ島の言語に戻ったので、少女はきょとんと小首を傾げる。
意思疎通は厳しいが、少なくとも彼女の体調が戻っていることは確認できた。
「顔色も大丈夫そうね。それじゃあ、まずは朝食にしましょう」
オーワは台所に向かい支度を始める。
「兄ちゃん。あとであたしにも会話のやり方、教えてね」
「わたしも良いかな? 最初はちょっと怖かったけど、できればお話してみたいな」
ルキとルクーリも母に続き、セクトは少女と取り残される。
互いに顔を見合わせて、何とも言えない空気の中――
「ボクたちも朝ごはんにしようか。って、何言ってるか分からないと思うけど」
「……貴方、は?」
はたと、少女はセクトに疑問を投げかける。
手帳に記された、断片的な言葉でしか伝わらない歪な会話。本来なら、決して交わるはずのなかった二人の間に、今この瞬間だけ思いが通じ合った。
「ボクは、セクト、だよ」
「セク、ト……――セクト。ワタシ」
金髪に青い瞳を持つ美しき少女。
「ユニア」
その名を、ユニアと言った。




