5
どれくらい時間が経ったのだろう。
いつのまにかカーテンの隙間から陽が差している。
顔を上げると窓際に野良猫のアーシャの姿があった。
「いま開けるね」
窓を開けると、冷たい風が頬を撫でた。
同時にアーシャがベッドに飛び込んできた。
毎朝決まった時間に訪れては、こうして餌をねだってくる。
「大きいアーシャは……」
部屋を見渡すが姿はない。
居間にも戻った形跡はない。
とにかくアーシャと話したかった。
彼女なら答えを知っているかもしれない。
支度をしようと洗面台へ向かい、一呼吸おいてから、鏡を覗きこむ。
やはり印は跡形もなく消えている。
印は徴用兵の証明。
最悪、解雇になる可能性がある。
王都での生活は終わってしまうだろう。
しかし昨晩ほどの焦りはない。
それどころかなぜ自分はあのように慌てふためいたのか、疑問に思う。
居場所や、立場、存在意義。
徴用兵になって手に入れた不自由ない生活。
だが今は、それよりも優先すべきことがある。
そう心から思えた。
◇
背後から人一倍大きな声で呼び止められた。
覚えのある声に思わずため息が出る。
振り向くと、やけに絡んでくるお節介な奴がヘラヘラと笑っていた。
アディスだ。
正直、一番会いたくないタイミングだった。
「よう。ノアじゃねぇか」
晴れやかに挨拶をするアディス。
こちらの気持ちなど知る由もないのだから、仕方がないが、少しだけ神経を逆撫でされた気分になった。
「ごめん、急いでる」
構ってる暇はない。
会話を避けるように横を通り抜けたが、焼却炉でのやり取りが過った。
「あー! もう!」
だから会いたくなかったのだ。
あたまをがむしゃらに振った。
嫌な気持ちを振り払うように。
「ど、どうしたってんだよ」
「なにが」
「なにがって……変だぞ」
「誰が」
「……お前だよ」
「えっと」
なにを言えばよいか分からず、勢い任せに頭を下げた。
それしか思いつかなかった。
「昨日はごめんなさい」
「あん?」
「わたし、どうかしてた」
「今も大概だけどな」
なんだか気恥ずかしくなり、再び走り出した。
少し離れてから、
「お礼は今度する! じゃあね」
と手を振った。
道中、大きいアーシャに鉢合うかもと周りを見渡したが、やはり姿はどこにもない。
そうこうしている内に文章院に辿り着いた。
階段をひとつ飛ばしで上がり、扉を開けた。
すると受付の司書と目が合った。
「えっと、走ってきたんですか?」
「はぁ、はぁ、別に、ハァ、急いでないですよ」
「……」
「焦ってなんかもないですよ」
「ご、ごゆっくりどうぞ」
「どうも」
何やら訝しげだが、気にしてる場合じゃない。
早くアーシャを見つけなければ。
会釈をし、受付を抜けた。
重い扉を開けると、書物の匂いが一気に押し寄せてきた。
「……おぉ」
逸る気持ちが文章院の厳かな空気に掻き消される。
木造の本棚には皮の背表紙が所狭しと並んでいた。
旧王宮の施設だけある。
壁側には調度品が、床には絨毯が敷かれている。
ステンドグラスからは暖かな光が注いでいる。
「っと。見惚れてる場合じゃない」
胸に手を当て息を整える。
改めてアーシャを探し始めた。
しかしいくら探しても影すら見当たらない。
「あとは……特別書庫」
視線の先には赤い撚り縄で遮られた扉。
特に案内などはないが、雰囲気からしてあそこがそうなのだろう。
どうやってアーシャが入ったか見当もつかないが、あの扉の奥に居る可能性は高い。
「あの」
案外簡単に入れてくれるかもと、司書に声をかける。
「何かお探しですか?」
「特別書庫はどうしたら入れますか?」
「申し訳ありません。一般書庫のみ公開となっております」
司書の表情が変わった。
口を真一文字に結んでいる。
一筋縄ではいかなそうだ。
こうなると厄介だ。
なんとか穏便に事を運びたいが――。
「……そうだ。あの、これ」
印を提示すれば融通が効くはず。
こういう時に本当に役に立つ。
「……?」
「えっと」
「それが何か?」
目を凝らし、司書が顔を近づけてきた。
「だから、これ――」
……あ。
「な、なんでもないです」
長年の癖は怖い。
不審がる司書を横目に、わたしはそそくさとその場を後にした。
「どうしよう」
街中にいる可能性ももちろんある。
許可が降りないなら、一旦街中を回るのも手だろう。
が、特別書庫。
可能性というならば、あそこしかない。
「……そうだ」
なにもわたしが印を提示しなくてもいいんだ。
印がある人を連れてくればいいだけの話だよ。
そうなると……。
会いたくない奴に会いに行くしかない。
わたしは来た道を急いで戻った。
「おーい!」
「まーたお前か。今度はなんだよ」
「印、貸して」
手の甲の徴用印を指差す。
突然の申し出に思わず手を引っ込めるアディス。
「は?」
わたしは手招きをし、耳元で小さく告げた。
「印が無くなっちゃったの」
「なんだって?」
「ほら」
首筋を見せると、アディスが分かりやすく目を見開いた。
「どうなってんだ、それ」
「とにかく手伝って欲しいことがあるんだ」
「待て待て」
「多分、もう王都にはいられなくなると思う。だから最後のお願い」
「とにかく落ち着けって。まずは事情を話せ」
アディスは納得しなければ、首を縦に振りそうにも無かった。
「分かったよ」
わたしは昨晩の出来事を手短に伝えた。
話が終わるまでアディスは何も言わずに耳を傾けてくれていた。
「にわかには信じがたい」
「でも本当だよ」
「信じがたいが、それを見せれちゃな」
特別書庫ねぇ、とアディスは眉を顰めた。
「だめかな」
「だめってわけじゃねぇ。ただ……」
アーシャの事を黙っているわけにはいかなかった。
かなり気を使って伝えたが、逆の立場だったら断っているかもしれない。
「悪い人じゃないんだ。少し変わってるけど」
「……分かった。お前にとって大切なことなんだろ。その代わり俺も一枚噛ませろ」
予想外の一言だった。
まさか首を突っ込んでくるとは。
だけど気持ちが軽くなった気がした。
「それにしても昨日とはまるで別人だな」
「そう? いつもと変わらないよ」
「ま、いいか」
二時間後に文章院で落ち合うと決めアディスと別れた。
一度戻ろう。
アーシャが帰っている可能性もある。
休暇が開ければ、また任務の日々だ。
印が消えたことは絶対に隠しきれない。
そうなれば、きっと……。
準備をしておくのに、早いことはないだろう。
部屋に戻るも、やはりアーシャの姿はなかった。
期待はしていなかったが、こうなるとやはり文章院にいるのだろう。
「ったく。なにしてんだか」
そのまま部屋へ向かう。
余計な物は置いていない。
すぐに荷物はまとまるだろう。
数十分後、案の定荷造りはすぐに終わった。
一息つき、ベッドに腰掛ける。
窓から風がそよいだ。
床に置いた銀の皿からは、餌が綺麗になくなっている。
「どっか行っちゃったかな」
心残りは猫のアーシャだ。
半分飼い猫のようなものなので、それなりに愛情を注いできた。
しかし、気まぐれな猫をあてのない旅に連れて行くのは難しいだろう。
物好きがいれば世話をしてくれるかもしれない。
あとでアディスに相談してみよう。
アーシャは今後どうするのだろうか。
興味が湧いたと山を降りた彼女だが、住むところもなくなるわけだし、山に戻るのだろうか。
考えてみれば、まだわたしは何も返せてない。
『ただの気まぐれさ』なんて言ってはいたが、このままさようならなんて不義理もいいところだ。
胸に響く不気味な声、思い返すも恐ろしい瞳、突き刺すような明確な殺意。
あの状況から生還したことは奇跡に近い。
もちろんレオや上官の奮闘無くして、その奇跡は起きなかった。
やはりしっかりと弔ってあげたい。
還りの光を確認できていない事実も、未だ胸につかえている。
アーシャにも返せるものがあれば返したいが、徴用印を失ったわたしに出来ることは少ない。
何か出来ることがあればいいのだが――。
考えている内に夕刻を告げる鐘が鳴る。
聞き慣れた夜を告げる音。
アディスの勤務交代の時間。
わたしは文章院に向かった。
「遅い」
花壇のへりに腰を下ろしていたアディスは、開口一番言い放った。懐中時計を見ると、まだ待ち合わせの時間になっていない。
「あんたが早いんだよ」
「時間前行動は徴用兵の義務だ」
「はい、屁理屈。仕事を早く切り上げてる証拠だろ」
「正解。いざ話を聞いたら浮き足だっちまってな。ちょいと早上がりを」
こういうところがアディスが変わり者たる所以だ。
もちろん徴用兵にも色々な奴がいる。
酒好きに女好き、毎日賭け事をやる連中もいれば、畑仕事が趣味の奴もいる。
しかしその誰もが任務に対しては真摯に向き合っている。
だけどアディスはその中でも異質だ。
端的に言えば忠誠心がないのだ。
そして恐らく、制度そのものに対して疑問を抱いている。
誰も口には出さないが、それがあからさまなのだ。
昨日の遺品整理がいい例だろう。
普通だったら遺品焼却を手伝うなんてあり得ない。
感傷に浸ることもない。
精神面に於いて、他人を気遣うなんてもっての外だ。
わたしだって……そうだった。
「その徴用印って本物?」
「なんだよ急に」
「西国とかの密偵なんじゃないの、あんた」
今のわたしなら、アディスのように生きられるかもしれない。
そう思うと自然な笑みが溢れた。
「やっぱり変わったよ、お前」
アディスはわたしの頭を乱暴に撫でた。




