第二章 終わり
晶や舞たちと分かれ、屋敷へ戻った葵は感慨深げに息をついた。
地球はなんとめまぐるしい場所であったろう。
噂通り刺激の強い、重たい負のエネルギーを感じる場所で、ずっと暮らしていけば思考はすっかり変わるだろうと思われた。
穏やかな月で暮らす葵にとって、地球で過ごした数時間が、大げさだが数日にも感じられた。
晶の想い人。
陽一の顔を思い出すと、笑顔になってしまう。想像していた人とは違ったけれど、一生懸命だった少年。和記に報告しようにも、どのように話をしたらいいだろう。
すでに晶には報告をしてしまっているのだ。和記の手がらにしてあげたかったのに……。
葵は小さく息をついた。その時、部屋の外から侍女の声がした。
「葵さま、お客様でございます」
お客様? 誰だろう、まさか、和記様ではあるまいな……、と葵は一瞬ドキッとした。
早足に客間へ向かった。客間で待っていたのは意外にも正勝であった。先程会ったのに、と思う。そう言えば、正勝にきちんとお礼を言っていなかった。
「正勝さま。この度はわたくしを地球へ連れて行ってくださり、本当にありがとうございました」
「いや、俺の方こそ、そなたには本当に感謝しておる。地球は大変だったな」
「はい……」
それはもう――。
彼は肝心な時にいなくなってしまったが、そんな事、口が裂けても言えない。
頭を下げたままでいると、衣擦れの音がして不思議に思い顔を上げた。すると、目の前に正勝の端正な顔があって驚いた。
「あ、あの……?」
戸惑って体を引くと、正勝の手がそっと自分の背中を抱いた。葵はドキドキしながら身を固くしていると、正勝が囁いた。
「葵」
「は、はい……」
答えた後、正勝の大きな手が葵の両目を覆い隠した。
「え? ま、正勝様? 何を……?」
呟いた時、葵は次第に目を開けているのが辛く、全身がぐったりとして力が抜けていった。床に眠るように倒れ込むと、正勝の声がかすかに聞こえた。
「すまぬ、そなたの記憶の一部分を消させてもらう」
正勝はそう言って、葵の額に手を当てて地球で起きた出来事の一部分を奪った。一部分と言わず、ほとんどの記憶が消された。
葵を椅子に座らせて、テーブルにうつぶせにさせると正勝は人を呼んで、葵が疲れて眠ってしまった、と伝えて帰った。
葵が目覚めた時、彼女はベッドで眠っていた。
「わたし……、なぜ、ここで寝ているの?」
不思議に思い、侍女に聞くと正勝の訪問があり、その後気を失うように眠っていたという。そこで、ベッドで寝かされていたのだが、葵は、よく眠った、と気分は爽快だった。
明日、さっそく和記に報告をしたい。
陽一が、雪を花びらに変えて晶を喜ばせようとした話を伝えよう。ちょっとドジで愛嬌のある陽一。
葵の記憶にある陽一の様子はそれだけだった。
葵の元を離れた正勝は、その足で妹の田霧の屋敷へ向かった。
田霧は、離れで赤子を抱いていた。赤子を寝かせようとベッドに横になり、あやしているうちにウトウトしていた。
「田霧」
正勝の声にハッと目を覚ました。
「兄上様」
目をこすって起き上がる。
「あら、わたくしったら、いつの間にか寝入ってしまうところでしたわ」
口元を押さえてほほ笑む。正勝は妹の側に座り、赤子の顔を覗き込んだ。赤子は眠っているようだが、その目はまだ一度も開いたことがなく、口も閉じられたままだ。泣き声を上げたこともない。髪の毛も爪も生えず、ただ、呼吸をしているだけ。
この赤子が産まれて幾歳過ぎたか……。
正勝は、赤子をじっと見つめた。
「兄上様。この子のお名前はなんておっしゃるの?」
「名前?」
「ええ。お名前ですわ」
田霧がふんわりと笑って、眠る赤子の額を優しく撫でた。
「るい……」
「え?」
田霧が首を傾げた。正勝は口から出た彼の名前をもう一度呟いた。
「流れる依と書いて、流依だ」
「流依さま……。このお子は……」
「男の子だ。そして、俺の……子だ」
それを聞いて、田霧が息を止めて目を見開いた。
「兄上様の? そんな……」
田霧はそれ以上、言わなかった。
「田霧、わけがあって俺には育てることができぬ。だから、そなたに託したいのだ」
「わたくしにでございますか?」
「そうだ。母親が誰かは聞くな。このように不憫な子ゆえ、母がおらぬ」
「かわいそうに……」
「そなたならきっと、立派に育ててくれると信じている」
田霧は、赤子、流依を見つめた。
青白いほど白い肌。やせ細った赤子はぴくりともしない。だが、手を差し出して頬を撫でると、わずかだが頬が動いた。
「承知いたしました」
「かたじけない」
「兄上様、お顔を上げて下さいませ。わたくし、流依さまを立派な殿方に育てるとお約束致します」
「頼んだぞ」
正勝はそれだけ言うと、すくっと立ち上がり部屋を出て行った。
数日前、葵から地球に行きたいという相談をされた時、兄の事をすぐに思い出した。地球に興味があると兄も話していたのを思い出したのだ。
兄に葵の話をすると、自分が手伝いをしようと申し出てくれた。そして、自分が地球へ行っている間、赤子の面倒を見てくれと、突然この子を置いていった。
誰の子か、どこの子かも言わずに――。
田霧は不安に思ったが、赤子の可愛い顔を見ていると、守りたい気持ちに駆られた。
地球の話は何も聞いていない。赤子についても何も分からずじまいだ。
母親のことは聞くな、と言っていた。
兄は帝の従兄であるし、女性との噂も切れたことがない。誰が母親でもおかしくないくらいだ。
しかし……。
小さな手のひらはまだ、爪も生えていない。ここに来てから何も食べず、手も握り締めたまま開いたこともなかった。
何だか薄気味悪い気もしていたが、見れば見るほど不憫な子に見えてくる。
「流依さま……?」
田霧が名を呼ぶと、赤子がぴくりと動いた。
「わたくしの声が聞こえるのね」
田霧にはお子が二人いたが、すでに手を離れている。
「わたくしはあなた様の叔母ですよ」
赤子が薄目を開けた。
「まあ!」
赤子の目は薄い灰色をしていた。
「わたくしが見えて?」
流依はまた目を閉じてしまった。
「これから仲良くしましょうね」
田霧は愛しい気持ちで流依の頭を撫でた。
赤子は眠ったままだったが、なんとなく穏やかな表情に思えた。
第2章 終わり




