動揺
刻は、少し遡る。
晶が、感じたという強大な気配のあった場所。
そこは、正勝の妹、田霧の部屋であった。
田霧は何が起きたのかまだ、理解していない。
当人は、呆けたように座り込んでいた。
――なにが起きているの?
いままで話すことも立って歩くこともできなかった流依が、突然、田霧に向かって言葉を話したのだ。
「た、たきり――」
最初、誰の声かわからなかった。
おなごのような声で、何度も自分の名を呼ぶのが、目の前の瑠依だとは信じられなかった。
しかし、立つこともできなかった流依が、今度は立ち上がり歩き出したのだ。
最初はふらふらして手を床についたが、すぐに壁に手を当てると、壁づたいに右足左足と動かして歩いた。
これまでは手をひらひらしたり閉じたりするだけの子が、歩いたのだ。
あまりのことで田霧は呆然とした。
「る、流依様、いま、わたくしの名を呼びましたか?」
「うん。おれ、たきりがわかる」
言葉を話している。
「ま、まあ、何てこと。信じられない……」
そして、さらにもっと驚くべきことが起きた。
田霧の頭の中に、流依が話しかけてきたのだ。
「テレパシーも使えるのですね」
――うん。こちらの方が早い。
頭に響くのは、少し成長した少年のような声。
――たきり、いままで俺を育ててくれたこと感謝する。
「え?」
――おれはやらなきゃいけないことを思い出した。きっかけなどわからぬ。ただ、突然、思い出した。
「な、何をですか? わたくしにお手伝いができますれば」
――すまぬ。それは無理だ。地球がおれを呼んでいる。
「地球?」
――もう、月には戻れぬと思う。おれはやりたいようにやる。
それだけ言うと、流依の姿がふっと消えた。
田霧は、何がなんだか理解できなかった。
「嘘、でしょう? これは夢?」
いつも冷静である田霧がこんなに動揺するのは初めてであった。
「冷静に、冷静になって」
自分に言い聞かせる。
乱れた呼吸を整えようと大きく息を吸い込む。
何度か繰り返すうち、外がガヤガヤと騒がしいのに気がついた。
「晶さま、お待ちください!」
女房の悲鳴が聞こえて見ると、御簾の向こうに帝の妹君、晶の姿があった。
「田霧どの、失礼と承知で参った」
これは偶然ではない。
田霧は、覚悟した。
「晶さまと二人きりにしてください」
あわてふためく女房たちに頼むと、すぐに彼女たちはいなくなり、部屋は静かになった。
晶が中へ入ってくる。
「田霧どの」
晶は、白い頬を上気させ、まっすぐ田霧の目を見つめた。
「いま、ここに誰かおらなんだか?」
「晶さま、どうぞこちらにお座りくださいませ」
「うむ」
晶の細い手を取り、田霧は体を寄せて小声で話した。
晶がここに来たことと瑠衣が突然、話し出したことは偶然ではない。
「わたくしも驚いているのです。何が起きているのか。どこから、話せばよいのかも……」
流依は、自分でもわからないが、突然、思い出したと言っていた。
「ここにいらしたお方は、流依さまとおっしゃいます」
「流依さま……」
昌は、目を閉じて何かを感じているようだった。
「そうだ。このエネルギーだ。我もまた、忘れていた記憶を取り戻した。長く地球にいたために月のことは何も知らなかった。だが、母上から事情を聞いた。流依さまは地球に行ったのだな」
「はい」
晶がじっと見つめている。
なぜ、流依がここにいたのか知りたいのであろう。
しかし、それを簡単には、伝えることはできなかった。
「流依さまはこうおっしゃっていました。地球が呼んでいる。そして、ただ、突然思い出したのだ、と」
田霧の言葉を聞いて、晶はうなずいた。
「承知いたした。なぜ、流依さまがここにいたのか聞きたいが、そんな悠長なことをしている暇はない。田霧どの、我はこれから地球へ行く。流依さまを追いかける」
「は、はい……」
自分も行くとは言えなかった。
晶の姿が、流依と同じように消えた。
姿が見えなくなり、田霧は愕然として、額に手を当てた。
いろんなことが押し寄せてきて、ついていけない。
しかし、次に起こることは予測できた。
流依を連れてきた張本人、兄の正勝が必ず現れる。
田霧は確信していた。
顔をあげても驚かなかった。
険しい顔で兄が立っていた。
「何があったか、説明せよ」
正勝の顔色は青ざめているように思えた。
「る、流依さまが突然、お話をされました。それから、立ち上がって歩いたかと思うと、やらなきゃいけないことがある。地球が呼んでいるから、行くと言って消えてしまいました。その後すぐ、晶さまがおいでになり、流依さまを追いかけて行かれました」
正勝の目が見開いて、がくりとその場に膝をついた。
「俺のことは何か言っていたか?」
「いいえ、兄上さま」
「晶には何も言っていないな」
「はい」
「わかった」
兄は立ち上がると、部屋を出ていこうとした。
「兄上さま、地球へ参られるのですか?」
兄は答えなかった。
「流依さま……」
田霧は小さく呟いた。
拙作をお読みくださりありがとうございます。
こちらの作品は、2024年よりカクヨム様にて推敲しなおして、再度連載を始めました。
まだ、なろう様の方の部分の方がかなり進んでいるのですが、もし、ご興味がありましたら、カクヨム様にて読んでいただけると幸いです。
ありがとうございました。




