思惑
屋敷へ戻った葵は感慨深げに息をついた。
地球は、なんとめまぐるしい場所であったろう。
穏やかな月で暮らす葵にとって、地球の時間は、大げさだが数日にも感じた。
晶の想い人。
陽一の顔を思い出すと、笑顔になってしまう。
想像していた人とは違ったけれど、一生懸命だった少年。
和記に報告しようにも、どのように話をしたらいいだろう。
すでに晶には報告をしてしまっているのだ。
和記の手がらにしてあげたかったのに……。
葵は小さく息をついた。
その時、
「葵さま」
と、侍女の声にハッと我に返った。
「どうしました?」
「お客様でございます」
お客様?
誰だろう、まさか、和記様ではあるまいな…、と葵は一瞬ドキッとした。
早足に客間へ向かった。
客間で待っていたのは意外にも、正勝であった。
「正勝さま」
葵は低頭して挨拶をした。
正勝は笑顔で話しかけた。
「葵、そなたには本当に感謝しておる。地球では大変だったであろう」
「はい…」
彼は肝心な時にいない事が多かったが、目上であるため言いにくい。
頭を下げたままでいると、衣擦れの音がして不思議に思い顔を上げた。すると、目の前に正勝の端正な顔があって驚いた。
「あ、あの…」
戸惑って体を引くと、正勝の手がそっと自分の背中を抱いた。
葵はドキドキしながら身を固くしていると、正勝が囁いた。
「葵」
「は、はい…」
答えた後、正勝の大きな手が葵の両目を覆い隠した。
「何を…?」
呟いた時、葵は次第に目を開けているのが辛く、全身がぐったりとなり力が抜けていった。
床に眠るように倒れ込むと、正勝の声がかすかに聞こえた。
「すまぬ、そなたの記憶の一部分を消させてもらう」
正勝はそう言って、葵の額に手を当てて地球で起きた出来事の一部分を奪った。
一部分と言わず、ほとんどの記憶が消された。
葵が目覚めた時、彼女は一人だった。
「わたし…、なぜ、ここで寝ているの?」
不思議に思い、侍女に聞いたが、誰も葵が客間にいたことを知る者すらいなかった。
葵は、その後、普段と変わらず穏やかな気持ちで自室へ戻った。
明日、和記に会ったら、陽一が粉雪を桜に変えて晶を喜ばせようとした話を伝えよう。
ちょっとドジで愛嬌のある陽一。
葵の中の地上の記憶はそれきりだった。
葵の元を離れた正勝は、その足で妹の田霧の屋敷へ向かった。
田霧は、離れで赤子の面倒を見ていた。
「田霧」
眠っている赤子のそばでうとうとしかけていた妹は、正勝の声にハッと目を覚ました。
「兄上様」
目をこすって起き上がる。
「わたくしったら、いつの間にか寝入っていたのですね」
口元を押さえてほほ笑んだ。
正勝は妹の側に座り、赤子の顔を覗き込んだ。
赤子は眠っているようだが、その目はまだ一度も開いたことがなく、口も閉じられたままだ。
泣き声を上げたこともない。
髪の毛も爪も生えず、ただ、呼吸をしているだけ。
この赤子が産まれて幾歳過ぎたか…。
正勝は、赤子をじっと見つめた。
「兄上様。この子の名前はなんておっしゃるの?」
田霧に聞かれてハッとする。
「名前?」
「ええ。名前ですわ」
田霧がふんわりと笑って、眠る赤子の額を優しく撫でた。
「るい…」
「え?」
田霧が首を傾げた。
正勝は口から出た彼の名前をもう一度呟いた。
「流れる依りと書いて、流依だ」
「流依さま…。このお子は…」
「男の子だ。そして、俺の…子だ」
それを聞いて、田霧が息を止めて目を見開いた。
「兄上様の? そんな…」
田霧はそれ以上言わなかった。
「田霧、わけがあって俺には育てることができぬ。だから、そなたに託したいのだ」
「わたくしにでございますか?」
「そうだ。母親が誰かは聞くな。不憫な子ゆえ、この子は母に棄てられた」
「かわいそうに……」
「そなたならきっと立派に育ててくれると信じている」
田霧は、赤子、流依を見つめた。
青白いほど白い肌。やせ細った赤子はぴくりともしない。
だが、手を差し出して頬を撫でると、わずかだが頬が動いた。
「承知いたしました」
「かたじけない」
正勝が頭を下げた。
「兄上様、お顔を上げて下さいませ。わたくし、流依さまを立派な殿方に育てるとお約束致します」
田霧がにっこりと笑う。
「頼んだぞ」
正勝はそれだけ言うと、すくっと立ち上がり部屋を出て行った。
数日前、葵に地球にいきたいという相談をされた時、兄の事をすぐに思い出した。
兄に話をすると、葵の手伝いをしようと申し出てくれた。
そして、自分が地球へ行っている間、赤子の面倒を見てくれと、突然この子を置いていった。
誰の子かも、どこの子かも言わずに――。
田霧は不安に思ったが、赤子の可愛い顔を見ていると、守りたい気持ちに駆られた。
地球の話は何も聞いていない。
赤子についても何も分からずじまいだ。
母親のことは聞くな、と言っていた。
兄は帝の従兄であるし、女性との噂も切れたことがない。誰が母親でもおかしくないくらいだ。
しかし……。
小さな手のひらはまだ、爪も生えていない。ここに来てから何も食べず、手も握り締めたまま開いたこともなかった。
何だか薄気味悪い気もしていたが、見れば見るほど不憫な子に見えてくる。
「流依さま…?」
田霧が名を呼ぶと、赤子がぴくりと動いた。
「わたくしの声が聞こえるのね」
田霧にはお子が二人いたが、すでに手を離れている。
「わたくしはあなた様の叔母ですよ」
赤子が薄目を開けた。
「まあ!」
初めて見る赤子の目は薄い灰色をしていた。
「わたくしが見えて?」
流依はまた目を閉じてしまった。
「これから仲良くしましょうね」
田霧は愛しい気持ちで流依の頭を撫でた。
赤子は眠ったままだったが、なんとなく穏やかな表情に思えた。
第二章 終わり




