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 鬼が村で暴れている。



 陽一郎は、花のいなくなった家で一人暮らした。

 村人が一日、一日、鬼に喰われる。

 兄が悪いのだ。鬼をけし掛けたのは兄だ。

 陽一郎は耳を塞いだ。


 花、どうして俺を残して逝ってしまった?


 悲しみに暮れていると、戸の向こうから女の声がした。


「陽一郎さん」


 兄の婚約者だった小枝さえだった。


「開いてるよ」


 戸が開いて、暗い顔の陽一郎を見ると、小枝は呆れた顔をした。


「また、泣いているの?」


 陽一郎は顔をそむけた。今は誰とも話をしたくない。


「村人がまた殺されたわ」

「そうか……」

「人ごとじゃないでしょ? あなたは男よ。いつか、あなたも鬼に喰われるのよ」

「次は俺かな」


 陽一郎が何気なく云うと、パシンと頬をはたかれた。


「何をするっ」

「仇を討ちなさいよっ。悲しいのはあなただけじゃないの。私は、新太郎さんを失ったのよ。祝言を挙げるはずだったのに、前日に殺されたのよ」


 陽一郎は、小枝から顔をそむけた。


「何もかも人のせいにしないで」


 頭上から冷たい声が響いた。


「え?」


 顔を上げると、小枝が鋭い目で自分を睨んでいた。


「うぐいす姫はあなたの名前を知っていたのよ。知りあいだったのでしょう」


 うぐいす姫はもういない。

 あれは鬼なのだ。人を喰い殺す、恐ろしい鬼なのだ。


「鬼に知り合いなどおらん」

「だったらあなたはここで何をしているの? 花さんはもういない。新太郎さんももういない。残された私たちができる事は何? 鬼を殺す事じゃないの? このままじゃ、みんな殺されるのよ」

「もう、帰ってくれ」


 陽一郎が手を振ると、小枝が大きく息を吐いた。


「花さんの事は残念だったわ」


 そう云って小枝は出て行った。


 花…!


 紙に花の似顔絵を描いてみた。少し上を向いていた団子鼻に、薄い胸板。髪の毛も短くお世辞にも綺麗じゃなかったが、料理はうまかった。いつも笑顔で自分を支えてくれていた。


「花…」


 ――俺は花を愛していたのだ。


 陽一郎は顔を上げると、鍬を持って外へ飛び出した。何も考えず畑に鍬を打ちこむ。しかし、すぐに耕すのをやめて、鍬を放り出すとどこかへ走りだした。裏の山を駆けあがっていく。


 知っている。この道を俺は知っている。


 裏の山をずんずん走って行った。

 このまままっすぐ行けば、うぐいす姫の元へたどり着くのだ。


 陽一郎の心は悲しみに埋もれていた。


 花、お前の仇を打ってやる! 俺が、うぐいす姫を殺してやる。


 陽一郎は、翁とともに走った道を猛然と走り抜けた。林を抜けると、屋敷の前に出た。門は寂れて崩れ落ちている。

 陽一郎は勝手に門を抜けて入口に入ると、中に向かって叫んだ。


「鬼、鬼よっ」


 ところが、出てきたのは赤い袴姿の少女だった。黒髪の少女は美しい顔をしていた。


「誰?」


 少女は首を傾げた。そして、ハッとした顔をすると、中に向かって叫んだ。


「姫、客人ですっ」


 声を聞いてか、静かに歩いて出てきたのはうぐいす姫だった。陽一郎は、一瞬、声を出すのを忘れた。


「陽一郎さま…」


 うぐいす姫は寂しげにほほ笑むと、ゆっくりと座った。


「いつか、いらっしゃると思っておりました」


 手を突いて頭を深く下げる。それから、顔を上げて少女の方を振り返った。


赤猪子あかいこさま」

「はい」


 名を呼ばれた少女がうぐいす姫を見上げた。その姿を見て、あの時の鬼が助けた巫女だと気付いた。


「月へ還れる時が参りました」

「一緒に還れるのですね」


 赤猪子の顔が輝く。うぐいす姫はほほ笑んだだけだった。


「陽一郎さま、いつか、お渡しした勾玉を覚えておいでですか?」


 陽一郎は覚えていなかった。


「いや、知らない」


 首を振ると、うぐいす姫が納得した顔で頷いた。


「申し訳ありませぬ。覚えていないのが当然でございました」


 うぐいす姫はすっと立つと陽一郎の手を取った。陽一郎は拒むことができず、姫を見つめた。


「勾玉よ、わたくしの最後の願いでございます。この娘を月の父上様の元へお連れ下され」


 赤猪子と呼ばれた少女が驚いた顔をする。


「わたし、一人では嫌です。うぐいす姫さまが一緒でなくては嫌です」

「赤猪子さま」


 うぐいす姫が優しい声で云った。


「わたくしは後から参ります。陽一郎さまに大切なお話があるの」


 赤猪子は必死でうぐいす姫の手を握りしめた。


「いや、絶対にこの手は離しません。うぐいす姫さまがいない月なんて行きたくない」

「あなたは大事な方なのです。月に還らなくてはならないお方」

「嫌ですっ」


 赤猪子はとうとう泣き出した。


「さあ、陽一郎さま、お力をお貸しくださいませ」


 陽一郎は操られるように手を差し出した。

 うぐいす姫がその手を取って、赤猪子に握らせた。

 赤猪子は抵抗をしたが、うぐいす姫は静かに云った。


「我が命ずる。勾玉よ、赤猪子をあるべき場所へ導くのです」


 陽一郎の手を通じて力が溢れだす。赤猪子は泣きながら首を振ったが、体がふわりと浮き上がり、天から光が下りてきた。


「いやっ、いやっ」


 少女は抵抗したが、少女の体は光に吸い込まれて見えなくなった。

 陽一郎は、一瞬、ぼうっとして、はっと目を覚ますとうぐいす姫と二人きりになっていた。

 うぐいす姫が穏やかに笑った。


「ありがとうございました。あなたは、わたくしを殺しに参られたのでしょう」


 陽一郎は、息をのんだ。


 ――そうではない。


 と、云えなかった。


 ――よいのです。


 うぐいす姫が云って、首を差し出した。


「今なら鬼は眠っています。わたくしの首を撥ねて下さい」


 陽一郎は首を振った。


「できません」

「陽一郎さま」


 うぐいす姫は笑っていた。


「正直に申し上げます。あなたにしか鬼を殺すことはできませぬ」

「え?」

「鬼を殺すには、あなたがやるしかないのです」

「なぜ…」


 うぐいす姫は答えなかった。

 陽一郎は、懐剣を取り出した。鬼を見たらすぐに殺すつもりでいた。

 もう一度、うぐいす姫が首を差し出した。

 その時、かたん、と懐剣が落ちた。


「許します」

「え?」


 うぐいす姫が首を傾げた。


「花はいなくなってしまったが、あなたがいる」


 うぐいす姫はおびえた目で後ずさりした。


「なりませぬ。陽一郎さま、わたくしを選ぶことはできないのです。わたくしは鬼です。鬼はきっとあなたを殺すでしょう。わたくしでいるうちに殺してください」

「できないと云ったでしょう」


 陽一郎は、うぐいす姫の手を取った。うぐいす姫はその手を振りほどこうとしたが、陽一郎は自分の方へ引き寄せた。


「もう離さない」

「ダメ…」


 うぐいす姫が首を振った。


「では、条件を出そう」


 陽一郎が低い声で囁いた。


「え?」

「俺が身代りになればいいのでしょう。先ほどあなたはこう云った。鬼は俺を殺すと、ならば殺せばいい。花もあなたも失った俺にはもう残されたものは何もない。残っていると云えばこの体ぐらいだ」


 うぐいす姫が顔を覆った。

 陽一郎は、もう一つ残酷な事を思いついた。


「術が使えるのなら、俺のこの手を差し出そう」


 右手を突き出す。


「先ほどの力を見ていたらこれくらいはたやすいだろう。この右手を残して朝には再生できるようにして、残りの部分は鬼が喰らえばいい。代わりに、村人を喰うのはやめてくれ」

「あなた様は…」


 うぐいす姫が涙で濡れた顔を上げた。


「わたくしを憎んでいるのですね」

「ええ、あなたが憎い。殺したいほど憎いのに、まだ、あなたをこんなにも欲している俺がいる」

「還りたい」

「どこへ? あなたはもう、還る場所はどこにもない」


 うぐいす姫はシクシクと泣きだした。陽一郎はその細い肩を優しく抱きしめた。




 その夜、目覚めた鬼はそばにいる陽一郎の姿を見て小躍りした。うれしさのあまり、時間をかけて陽一郎をいたぶり、目玉をしゃぶり、ようやく喰いつくした頃、明け方だった。


 残された右手は朝には再生されており、最初、目覚めた時、陽一郎は自分がどこにいるのか分からなくなっていた。鬼は朝にはうぐいす姫に戻っており、再生された陽一郎を手厚く介抱してくれたが、陽一郎はおびえるばかりだった。



 幾日が過ぎただろう。もう、姫は人の姿には戻れず、鬼だけが残った。

 鬼は、陽一郎を離そうとしなかった。常にそばに置いて夜には喰った。朝方目覚めた陽一郎は、鬼が苦しんでいるのを見た。

 喉をかきむしり、うめき声を上げて、おびえては夜具の中に隠れ、次第に元気もなくなっていった。


 鬼に名前はあるのだろうか。

 ある日、ふと、思った。


 陽一郎は鬼に話しかけた事はなかった。いつも、一方的に鬼が話すのをただ、黙って聞いて頷くだけだった。

 鬼はよく月を眺めていた。




 その日、風もなく静かな夜だった。

 陽一郎は右手を支えて外へ出てみた。地面に影が映っている。満月だった。


 赤猪子さんはどうしているだろう。


 ここに来た日に、泣きながら月へ還った赤猪子。

 あの日が懐かしい。あれから幾日が過ぎたのだろう。

 

 雨でも降りそうだ。陽一郎は屋敷へ戻ろうと顔を上げた時、鬼がこちらを見ていた。何度見ても鬼の形相は恐ろしい。

 飛び出した鬼の歯、もう、ぼろぼろになってところどころ欠けている。


 鬼は、陽一郎を呼び寄せた。


「参れ」


 声もすっかり変わってしまった。陽一郎は云われた通り鬼のそばに近寄った。鬼はいつものように陽一郎の右腕をつかむと、持っていた刀で切り落とそうとした。しかし、手を止めた。腕はそのままだった。


月暈つきがさが見える」

「ええ」


 陽一郎は頷いた。鬼は刃を置くとふらりと立ち上がり、どこかへ行ってしまった。だが、鬼はすぐに戻って来た。手に盃を持っている。


「飲め」


 云われた通り酒を飲んだ。甘い酒だった。


「うまいです」


 そう云うと、鬼が笑った気がした。


「右手を見せろ」


 陽一郎は感覚のない右手を左手で持ち上げた。


「貸せ」


 鬼が、陽一郎の右手に手のひらをかざすと感覚のなかった右手に色が戻り、爪が生えてきた。

 びっくりして顔を上げると、鬼が真顔でこちらを見ていた。


「主の名は陽一郎であったな」

「はい」

「我にも名前があった。しかし、思いだせぬ」


 鬼は悲しそうに見えた。


「忘れたのですか?」

「覚えておらぬ。思い出せば、ここではないどこかにゆけるような気がしてならぬ」


 どういう意味だろう。


 首を傾げると、鬼が立ち上がった。


「もう、お前を喰うのはやめる」

「え?」

「村の者を喰うことはせぬ。安心いたせ」


 拍子抜けして、何も言葉が出なかった。


「主はもう自由じゃ、好きに致せ」


 鬼が去って行く。


「待ってください」

「名前を教えてください」


 鬼が振り向いた。


「覚えておらぬと申したはずじゃ」

「じゃあ、思いだしましょう」

「何?」


 鬼が怪訝な顔をした。


「思いだすのです。あなたの名前を」

「我の名を思い出す?」


 鬼が戻って来て、陽一郎の顔を不思議そうに覗き込んだ。


「主は面白い事を考えるのぉ」


 鬼はひとしきり笑った後、頭を下げた。


「こんなに笑ったのは久しぶりだ。陽一郎、礼を云うぞ」


 陽一郎も鬼の笑った顔は初めて見た。




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