花
何が起きているのか、分からない。
「兄者、やめてくれ」
「鬼を殺すには人手が足りないんだ。お前でも役に立つだろう」
兄の恐ろしい言葉に心が震えた。
村に下りると、白繻子に紅梅模様の小袖姿の若い娘が、村人に囲まれてうずくまっていた。娘の両手両足は縛られている。
「ひどい事を…」
陽一郎はそばに寄って娘を見た。
どこかで見たことのある顔だった。
「陽一郎さま…」
娘が云ったが、陽一郎は眉をひそめた。兄が聞いた。
「知り合いか?」
陽一郎は首を振った。
「俺は知らぬ」
見覚えのない顔だった。しかし、見れば見るほど美しい女だった。
「気をつけろよ、この女は鬼なのだからな」
兄が云った。
「だが・・・、確かに美しい」
兄は娘のそばにしゃがんで顔を覗き込んだ。娘は顔をそむけたが、兄はその頬を強引につかんでこちらを向かせた。
そして、身動きの取れない娘の頬を手のひらで撫でた。
「殺すのはもったいない。どうだ、鬼、俺の云うことを聞くのであれば、殺さないでやるぞ」
娘は目を見開いて、首を振った。
「お許し下さいませ」
「ははは」
兄は高らかに笑った。
「殺すのは後だ。こいつをなぶってからにしよう」
陽一郎は顔をそむけた。
「陽一郎さまっ」
その時、娘が叫んだ。
陽一郎は青ざめた。
よせ! 俺はお前など知らぬ!
「陽一郎、本当に知らんのか?」
兄が詰め寄る。
「ああ、知らぬ」
陽一郎は答えた。
苦しかった。喉が熱く、嫌な気持ちでいっぱいになる。
「だったら、お前の手で殺せ」
兄が命令を下す。陽一郎は首を振った。
「なぜ? この女は鬼ではない。ただの女だ。なぜ、殺さねばならんのです」
「鬼だからだ」
兄は正気を失ったのか?
どうすれば皆を落ち着かせることができるのだろうか。
陽一郎は娘を見た。目が合うと、なぜか娘が目をそらした。
なぜ、自分の事を知っていると云ったのに、目を逸らすのだろう。
「陽一郎、お前が殺さないのなら、俺がやるぞ」
兄が叫んだ。このままでは本当に殺されてしまう。
陽一郎は、とっさに娘のそばにしゃがみこんだ。
娘が体を引いた。
「案ずるな、殺しはせぬ」
「え?」
「殺すふりをするから、気を失ったように見せかけてくれ」
「どうなさるのです?」
「俺の手を切る」
「やめて下さい、あなたの体に傷が付きます」
「大したことはないから」
陽一郎は心配させないように云ったが、娘は涙ぐんで首を振った。
「殺して下さい」
「え?」
「本当に殺して、そして、わたくしを…、このままのわたくしを還してください」
還す?
陽一郎は目を閉じた。何か大事な…何かがよぎる。その時、
「旦那さまっ」
どこからか花が駆けてきた。
「花っ」
花が陽一郎に抱きついた。娘が目を見開いて呟いた。
「花さま…?」
「花、ここは危険だから離れてろ」
「でも、うぐいす姫さまのお命が危ないのでしょう?」
「いいからどくんだ」
陽一郎たちのやり取りを娘が見ている。何だか居たたまれない気持ちになった。
「花、いいから、離れてろ」
「……へえ」
花がとぼとぼと離れて行く。その後ろ姿を見送って娘を見た。娘は傷ついた顔をしていた。
「お願いです。どうか、わたくしをこのまま月へ還してください」
月へ還りたい。
どこかで聞いた声だ。
陽一郎は目を閉じた。自然と言葉があふれる。
「いや、許さぬ…」
「陽一郎さま…」
娘の目から涙があふれた。
「ああ…」
陽一郎は胸をかきむしった。
この娘が誰なのか、知らない。
でも、勝手に体が求める。
陽一郎は、うぐいす姫を抱きしめた。
「血迷ったか陽一郎」
背後で兄の声が冷ややかに聞こえた。
「やめてけれっ」
花の悲鳴がして、気づけば、うぐいす姫をかばうようにして、花の背中に刀が突き刺さっていた。
「花さまっ」
うぐいす姫が悲鳴を上げた。
「鬼をかばう者は殺す」
狂ったとしか思えない。兄は、もう人ではなくなったのか。
「なぜ? どうしてこんな事に…」
うぐいす姫が泣いている。その時、うぐいす姫の髪が金色に変わり始めた。角が生えて口から牙が伸び、顔を上げたその目は金色に輝いていた。
「鬼だ、殺せっ」
兄が刀を引き抜くと、花の体が崩れ落ちた。
「花っ」
陽一郎は、すかさず花を抱きとめた。うぐいす姫がそれを見ると、兄を睨みつけた。
「主、許さぬ」
「鬼…」
兄が笑った。
「やはり鬼だ。殺せっ」
うぐいす姫は目を見開くと、陽一郎の脇をすり抜けて兄の腕にかぶり付いた。兄が悲鳴を上げる。
手を喰われ、うぐいす姫は肩にもかぶりついた。
仲間たちが逃げ去り、残された兄はどんどん鬼に喰われていく。
「うぐいす姫さま…」
花が手を伸ばした。鬼にはもう、聞こえていないようだった。
「旦那さま、姫さまを止めてくだせえ。あまりにもかわいそうじゃ」
「花っ」
花の背中からは血が溢れている。自分をかばってくれたのだ。
「花、死ぬな」
「花は幸せでございました。旦那さまはうぐいす姫さまをお守りくだせえ」
「どうして…」
「だって、あのお方はあなた様が好きになったお方でございましょ。大切なお方でございましょ」
花の言葉がか細くなり、聞こえなくなった。
「花っ」
陽一郎が叫んだ時、後ろでヒューヒューと喉で息をする音がした。振り向くと血まみれの鬼がこちらを見ていた。
「その者、よく聞くがよい。我の怒りはこれで治まったわけではない。これより、この村の男どもを全て喰い殺す」
陽一郎は、花を強く抱きしめた。
「どうか、おやめ下されっ」
「主、名を何と申す」
鬼は目を細めると、陽一郎に名を尋ねた。
陽一郎は泣きながら答えた。
「俺は、陽一郎と申します」
「陽一郎…」
鬼は呟くと、それきり何も云わなかった。
口についた血をぬぐい、振り向くと、すうっとどこかへ消えてしまった。
陽一郎は、花を抱きしめたまま、涙をこぼした。
「花、どうして…。お前がいないと、どうしていいか分からないっ」
揺さぶったが、花はもう動かない。
「花っ」
花の亡骸を何度も抱きしめて、陽一郎は泣いた。




