愛しい人
愛しい人がそばにいる。
陽一郎は、うぐいす姫を介抱しながら幸せに浸っていた。手を伸ばせば届くところに彼女がいた。
白い頬に柔らかい髪の毛。精がつくからと汁を呑ませるために背中を抱き、指先で唇に触れることもできる。
泣きそうなくらい幸せだった。
彼女はもう俺のものだ。ひと時も離れたくなかった。
うぐいす姫は少しずつ元気を取り戻し、床を片付けて外へ出られるようになった。顔色がいいし、笑顔も見せてくれる。
「陽一郎さま、こちらへ来て下さる?」
田畑で作業していた自分を呼ぶ声がする。見ると、縁側に座って茶の用意をしてくれていた。陽一郎は鍬を置いて汗をぬぐった。
「すぐに」
陽一郎が返事をして駆け寄ると、うぐいす姫はほんのりと顔を赤く染めてにっこりと笑った。
「少し休憩をしてください」
「はい」
陽一郎は入れてくれた茶を飲んで、縁側に座った。うぐいす姫の膝がそばにあり、頭を乗せると優しく頭を撫でてくれる。心地よくて彼女の膝に顔をうずめた。すると、優しく撫でていた手がぴたりと止まり目を開けてみると、悲しい顔をしたうぐいす姫が呟いた。
「祝言を挙げられたのでしょう?」
またその話だ。陽一郎はむっとして体を起こした。
「姫、やめましょう」
「いいえ」
うぐいす姫は首を横に振った。
「奥様が心配されておられますね」
「花は心配などしておらぬ」
「花さまとおっしゃるのですね」
しまった、と思った。花の事など口にしたくもなかったのに。心に黒い闇が広がっていく気がした。
「うぐいす姫」
陽一郎は屋敷に上がると、体を引いたうぐいす姫の腕をつかみ、強引に口づけをして話をするのをやめさせた。
うぐいす姫の唇はひんやりとしていて、甘くとろけさせる。もう何度、体を重ねたことだろう。いっそ、四六時中縛りつけて外に出さず、自分のものだとうぐいす姫の心にも刻みつけたい。
陽一郎に息もできないほど抱きしめられて、うぐいす姫は小さく悲鳴を上げた。
「苦しい、離してください」
「嫌だ」
陽一郎はなおも強く抱きしめた。うぐいす姫は目を閉じたまま、陽一郎のしたいようにさせた。
陽一郎は、うぐいす姫を床に寝かせようと抱き上げた時、隣の部屋の中からどさっと鈍い音がした。
はっと顔を向けたうぐいす姫が腕の中から抜け出した。陽一郎が駆け付けた先で、翁が倒れていた。
「おじい様っ」
うぐいす姫の叫ぶ声も届かず、翁はこの世を去った。
それからと云うのも、うつろな目でうぐいす姫はよく空を見上げるようになった。特に、月夜の晩はため息の数が多くなる。自分がそばにいるのに、うれしくないのだろうか。
「うぐいす姫」
囁きかけると、うぐいす姫は泣きはらした顔で云った。
「還りたい」
「え?」
小さい声でよく聞こえなかった。
「何と云ったのだ? もう一度云って」
「還りたい。おじい様ももういない。わたくしはもうここにいたくない」
「俺がいるのにかっ」
陽一郎は、自分を見ないうぐいす姫に対して苦しい気持ちになった。
「あなたはここにいてはなりません。奥様がいらっしゃるのに」
花の事などどうでもいい。俺には、うぐいす姫しかいないのに、どうしてそれが分かってもらえない。
「来いっ」
「今宵は嫌です。月が見ています」
「誰が見るものか」
陽一郎が叫ぶと、うぐいす姫が目を見開いた。
「あなた…」
初めて呼ばれた。陽一郎は一瞬、手を止めた。その時、うぐいす姫に口づけられ力が抜けた。
「あなた、わたくしがどれほどあなたを愛しているか、分からないのですね」
うぐいす姫が何か云っている。しかし、まるで小鳥のさえずりのようでよく聞こえない。
「これをわたくしだと思って、大事にして下さい」
そう云って袂から取り出したのは、瑪瑙の勾玉だった。姫は自分の口の中に入れると、舌を使って陽一郎の口の中に勾玉を上手に入れた。
「飲みこんで」
云われた通りに飲みこむ。
「陽一郎さま…さようなら」
囁く声を最後に、陽一郎は意識を失い、そのまま眠ってしまった。
目が覚めると、花の隣で夜具を敷いて眠っていた。
「おはようございます」
花が覗き込んで、にこりと笑った。
陽一郎の気分は爽快で清々しく、朝日が気持ちよかった。
「よく寝たよ」
陽一郎が大きく伸びをすると、ゆっくりと起き上がった。花はそれを見てくすくす笑った。
「寝過ぎでごぜえますよ」
花、近くへおいで、と呼ぶと、花は頬を真っ赤に染めて近寄って来た。
「ダメです、おら、水を浴びてねえから」
なぜだか、花を愛しく感じた。背中を抱き寄せて耳に口を寄せると、花は体をよじった。
「旦那さま、くすぐってえだ」
今朝の花を特別、綺麗だと感じた。




