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ありけり




 あの日以来、うぐいす姫への想いが止まらない。


 陽一郎は、ため息ばかりついていた。何をしても彼女の顔が思い浮かぶ。家の者はめいめいが好き勝手なことをしているので、顔を合わすことはめったになく、陽一郎の気持ちを知る者はいなかった。


 兄は相変わらずだし、父と母も別々に生きているようなものだ。


「はあ…」


 薪割りをすませ、朝餉でも食おうと屋敷に戻ると、兄の部屋からうめき声がした。また女か…。


 近寄らぬ方がよいと思ったのに、部屋の中から女が這い出してきた。着物も身につけていない。裸の姿にぎょっとすると、女はケガをしているらしかった。腕から血を流し、顔には青あざがあった。


「なんて事を…」


 陽一郎は女に駆け寄り抱き起こした。女は一瞬、びくっと体を震わせたが、兄ではないことに気づくと泣き始めた。兄にひどい事をされたのは一目瞭然で、女がかわいそうに思えた。


「これ、泣くな」

「へえ」


 女は、涙を拭いて自分が裸であることに気づいて前を隠した。陽一郎は、腰ひもを解き、筒袖を脱いで手綱ふんどし姿になると、女に着物を着せてやった。女は必死で前を掻き合わせると、陽一郎に何度も礼を云った。


「兄者がひどいことをして申し訳なかった。代わってお詫びいたす」


 陽一郎が謝ると、女は首を振った。


「いいえ、あなたは何も悪ぐねえ」


 女は少しだけ微笑むと、そそくさと出て行った。後ろ姿を見ると、申し訳ない気持ちで一杯になる。頭を下げて女を見送った。




 それから数日、何事もなく日が過ぎて行った。しかし、陽一郎の心は限界まで達していた。

 うぐいす姫に会いたい。想いを募らせ、ぼんやりすることも増えていた。


「陽一郎」


 庭をぼうっと眺めていると、父に呼ばれた。珍しいこともあるものだ、と不思議に思って返事をする。

 父の元へ行くと兄が一緒にいた。母も座っている。


「みんなそろってどうしたんです?」

「お前に縁談の話を持ってきた」

「え…?」


 陽一郎の顔はこわばった。心臓が痛いくらい鳴りだす。相手は誰だ。まさか、うぐいす姫ではあるまい。


 母は顔を伏せて息をつき、父も苦々しい顔だったが、大きく息を吐いて云った。


「入って来なさい」


 ふすまの向こうへ向かって声を出すと、戸が開いておずおずと女が入って来た。陽一郎はうめき声を上げた。あの女だ。


「へえ…」


 女は申し訳なさそうな顔で陽一郎の隣に座った。


 まさか…。


 陽一郎は胸騒ぎがしてならなかった。


「この者と結婚するのだ」


 理由を聞きたかったが、兄の目が痛い。鋭く自分を睨んでいる。

 自分が何をしたのだと叫びたかったが、恐ろしくてできなかった。


「はい…」


 それだけしか云えなかった。父と母はほっと息をついて、聞きわけのよい息子を見てほほ笑んだ。


「話はそれだけだ。早いうちに祝言を挙げよう」

「あの…」

「ん? どうした?」


 父が不思議そうに首を傾げる。


「兄者は? 俺が先に祝言を挙げるのですか?」


 兄は、頬を引きつらせると陽一郎を睨んだ。


「俺は気にしない。一刻も早くその女と祝言を挙げろ。そして俺の前に姿を見せるな」


 どちらに云ったのか分からないが、両方に云ったのだと思う方が無難だろう。

 陽一郎はぎゅっと手を握りしめた。


「分かりました」


 女は深く頭を下げて、言葉を発しなかった。

 部屋の中に誰もいなくなり、二人だけになった。陽一郎はショックのあまり茫然としていたが、隣にいる女を見ると、この女も不幸なのだと思いなおした。


「顔を上げなさい」

「へえ…」


 女は顔を上げた時、目を潤ませて今にも泣きそうだった。


「なぜ、泣きそうな顔をしている」

「うれしいのでごぜえます」

「え…?」

「おら、あなた様を一目見た時から惚れておりました。嫁にしてもらえるのなら、野良仕事でも何でも致します」


 女はほほ笑んだ。年は、ひとつ二つ年下だろう。日に焼けた素肌に黒髪はもつれていた。陽一郎は優しい言葉をかけてやろうとしたができなかった。自分の気持ちに嘘をつけない。


「気持ちはありがたいが、俺には好きな人がいる」

「え?」


 女が目を見開いた。みるみるうちに涙があふれた。


「そ、そうですか。おら、申し訳ないことをした」


 女が床に手を突いた。


側女そばめでかまわね。気にしませんから」


 陽一郎は硬く目を閉じた。


「そうはいかない」

「え?」


 女が顔を上げる。赤らんでいた顔は真っ青になっていた。陽一郎は、ささくれだった女の手をそっと握った。


「決まったことだ。できるだけの事はする」

「はい!」


 女がほほ笑んだ。

 そう云えば、女の名前を聞いていなかった。


「そなた、名は?」

「おら、花と申します」






 花との祝言はあっという間に決まり、村にも広まった。


 実家から少し離れたところに、小さい住居を建てて、そこで二人で暮らし始めた。

 花はおとなしい女だった。陽一郎の気持ちを知っているが、黙々と仕事をして、余計なことを云わなかった。


 いまだ陽一郎は、花と床を共にしていない。

 花に寄られたが、疲れているからと断った。花を目にして心が動かなかったのだ。

 最初に花を見た時の衝撃と兄のこれまでの行いが、自分を抑えているのかも知れなかった。


「旦那さま、お休みなさいませ」


 花が挨拶に来て、寝床に入った。陽一郎の背中は硬くこわばっていた。


「うん、おやすみ」


 答えてから、息苦しさに外へ出た。


 月が出ている。丸い月だ。


 陽一郎は顔を覆った。

 うぐいす姫はどうしているだろう。翁にも会っていない。無意識に避けてしまっていた。

 自分はもう前の自分ではない。


 俺がいったい何をしたというのだ。誰を責めるわけにもいかないが、行き場のない怒りが体の中に溜まっていた。


 ――うぐいす姫。


 陽一郎は走りだした。山へ向かって一直線に獣道を走る。


 このまま行けば、うぐいす姫がいる。

 道を知っているのは、自分だけなのだ。


 息が切れるくらい猛然と走った。月明かりが地面を照らしてくれている。翁の屋敷が見えてきた。皆、寝入っているのだろう。真っ暗だ。月が出ていなければ、何も見えなかったろうし、ここまで来られなかっただろう。

 陽一郎はそっと庭に入った。そして、縁側に座っているうぐいす姫を見て、立ち止った。


「陽一郎さま」


 うぐいす姫が自分の名前を呼んだ。陽一郎はその場を動けなかった。自分はなぜここにいるのか。来ては行けなかったのに。

 うぐいす姫は立ち上がると、陽一郎のそばへやって来た。陽一郎は後ずさりした。


「待って」


 うぐいす姫が呼び止めた。陽一郎はごくりと唾を呑んだ。振り向くと手の届く場所にうぐいす姫がいた。


「姫…」

「黙って…」


 うぐいす姫の指が唇に当たる。そして、顔が近づいた。陽一郎は目を閉じた。彼女が自分の唇に触れている。

 喜びに酔いしれた陽一郎は立ちつくしたまま、ただ、目を閉じていた。


「陽一郎さま」


 うぐいす姫の囁く声に目を開けると、不思議そうな顔をした翁が立っていた。


「あっ」


 陽一郎はあまりに驚いて、尻もちを突いた。


「こんな夜更けに何をしているんですか」

「すみません」


 うぐいす姫はどこにもいない。なぜ自分がここにいるのか、陽一郎も答えられなかった。


「俺、何でここにいるんでしょう」

「さあ…」


 翁は薄気味悪そうに陽一郎を見た。


「寝ぼけたんですね。早く戻った方がいい」


 背中を押されて、陽一郎はしぶしぶ頷いた。翁に頭を下げて山を下りようとすると、


「祝言を挙げられたと聞きました」


 と、背中で翁の声がした。振り向くと、翁が穏やかに笑っていた。


「おめでとうございます」

「はい」


 陽一郎は逃げるように山を下りた。


 その日は死んだように眠った。こんなに深い眠りについたのは初めてだった。



 次の日、気分がよかった。生き返ったような気がして、太陽がまぶしい。


「旦那さま」


 花が朝餉の汁を渡してくれながら、笑った。


「今日はすごく顔色がいい。おら、心配してたんです」

「うん、俺も気分がいい」


 二人で笑いあうのも初めてだった。花の嬉しそうな顔も陽一郎の気持ちを明るくさせた。

 陽一郎は夕べの出来事を覚えていなかった。ただ、気分が爽快であることだけ、不思議に思った。

 花との結婚生活は穏やかに過ぎた。


「旦那さま」


 畑を耕していると、花が急いでやって来た。


「どうしたのだ?」

「お客様でごぜえます」


 花の少し不安そうな顔がうかがえた。

 誰だろう。

 陽一郎は、額に流れる汗を拭いて家に戻った。客間にいたのは翁だった。

 何日ぶりだろう。まだ、結婚したことも伝えていないはずだった。


「お久しぶりでございます」


 翁が頭を下げる。


「翁…」


 陽一郎は目を疑った。ずいぶん、痩せられた。

 言葉を失っていると、花が入ってきて茶を出した。翁にお茶を勧めると花はすぐに出て行った。


 いなくなったのを確かめ、翁の方へ体を近づけた。


「ずいぶんお痩せになられたようですが、大丈夫ですか?」


 声をかけると、翁は口を震わせるなり、頭を床につけた。


「無理な事を承知でお願いします。うぐいす姫さまに会って頂けませんか」

「えっ」


 陽一郎はその名前を聞いて、今まで封印していた気持ちが一気にあふれ出した。忘れようと努力していたのに、翁の言葉で打ち砕かれた。


「でも…」

「姫が病気なんです」

「そんなっ」


 うぐいす姫が病気と聞いていても立ってもいられなくなった。今すぐ飛んでいきたい思いに駆られる。


「すぐに行きます」

「ありがとうございます…!」


 翁が目元を真っ赤にさせて、頭を下げた。

 家を出ると花が追いかけてきた。


「旦那さまっ」

「すぐ戻るから、案ずるな」

「でもっ」


 花も泣きそうな顔をしていた。陽一郎はその顔を振り切るようにして翁を追った。

 前を歩く翁を見て、ずいぶん年を取られたと感じた。足取りがふらふらしており、何度も木の根に足を取られて転んだ。しかし、翁は一刻も早く姫の元へと急ぐように歩いて行く。

 陽一郎は、翁の腕を取った。


「かたじけのうございます」


 狭い獣道を二人で走るように歩いた。いつもより長い時間をかけて屋敷へつくと、庭は雑草で覆われ寂れていた。


「どうして…」

「この老いぼれだけではこの広い屋敷は片づけられなくて」


 気がつけば、翁の腕は木の枝のように細くなっていた。


「申し訳ありません。もっと早く気がつけばよかったのに」

「陽一郎殿は何も悪くありません」


 翁が言ったが、申し訳ない気持ちで一杯になった。


 屋敷に入ると、部屋には埃がたまり蜘蛛の巣も張ってある。あまりの惨状に心を痛め、部屋に入ると床が敷いてあり、そこにうぐいす姫が横たわっていた。


「うぐいす姫っ」


 陽一郎が駆け寄ると、うぐいす姫が目を開けた。頬がこけ、別人のように痩せていた。


「陽一郎さま…」


 うぐいす姫は目を見開いてから、顔をそむけた。


「こちらを見て下さい」


 懇願すると、うぐいす姫は夜具を頭からかぶった。


「見ないでください、こんな姿」


 うぐいす姫が泣いていた。

 陽一郎は、夜具からうぐいす姫を抱きしめた。


「もう、離れませんから」


 陽一郎は無意識に叫んでいた。


「俺は二度とこの手を離しませんからっ」


 うぐいす姫の嗚咽が耳に届いた。




拙作をお読みくださりありがとうございます。


こちらの作品は、2024年よりカクヨム様にて推敲しなおして、再度連載を始めました。

まだ、なろう様の方の部分の方がかなり進んでいるのですが、もし、ご興味がありましたら、カクヨム様にて読んでいただけると幸いです。

ありがとうございました。

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