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昔、むかし…





 兄がまた、女子おなごを連れ込んでいる。


 陽一郎は山から戻り、納屋に入って荷をほどいて下ろしていると、屋敷の方から女の悲痛な叫び声が聞こえて顔をしかめた。

 不愉快だった。仕事もせずにふらふらして、女にしか目がない。しかし、陽一郎の屋敷はこの辺りの豪族であり、長男である兄は権力を持っていた。力のない農夫たちは兄の云うことは何でも聞いた。二男である陽一郎もその一人だ。

 どんなに兄を汚らわしく思っても、大きく云えない。もし、盾突いたりしたら明日、命はないだろう。


 陽一郎は、女がいなくなるのを待って、納屋の外で作業をすることにした。

 今日は久しぶりにイノシシが取れた。皮を剥いでから、肉を切り落としていく。作業にはかなり時間がかかった。

 汗を拭いて大窯に溜めておいた雨水で体を洗うことにする。上半身を脱いで、手ぬぐいに水を浸すと全身に浴びた血と汗を流した。


「臭い」


 男の声に振り向くと、いつの間にか兄が立っていた。


「今夜はイノシシか」


 兄はそう言い捨てると、屋敷へと戻って行った。陽一郎はため息をついた。


「陽一郎殿」


 しわがれた男の声に振り向くと、翁が立っていた。彼は山奥に住んでいる。

 陽一郎がお辞儀をすると、翁は持って来ていた野菜を分けてくれた。


「これを」


 陽一郎は、切り取ったばかりの獅子肉を渡して二人は笑った。


「いつもありがとうございます。陽一郎殿」

「こちらこそ、新鮮な野菜をたくさん、かたじけない」


 陽一郎はそっと翁に近寄り、小声で言った。


「あの、うぐいす姫様はいかがお過ごしですか? 最近、暑い日が続いておりますので体を壊していないかな、と思って」


 翁はほほ笑むと、息災でございます、と答えた。


「そうですか」


 陽一郎は、たった一度だけ、うぐいす姫の姿を見たことがあった。一度、翁の屋敷に呼ばれ、夕餉を馳走された時にお世話をしてもらったのだ。

 初めて姿を見た時、こんな美しい人が地上にいるのかと驚いた。兄に知れたら、その日に夜這いされる恐れがあるため漏らしたことはない。


 翁は陽一郎の気持ちをよく知っているのだろう。嫌がらずにうぐいす姫の様子を教えてくれる。彼女の話題をする時が、陽一郎にとって至福の時だった。


「姫さまには不思議なお力がある」

「え?」

「あなたのように、姫さまのお姿を見るだけで心が和み、嫌な気持ちも消えて至福を得られる。ありがたい事です」


 どういう意味だろう、と陽一郎は思った。


「あの、俺にはよく分からないのですが…」

「前におっしゃられたでしょう。村で争いごとが絶えず困っていると」

「はい」


 確かに陽一郎はぼやいたことがあった。

 兄が女を奪うと、その陰で男たちが苛々を募らせ、やがて諍いに発展する。問題は分かっているのに、止めることができない。

 つい、翁にぼやいてしまった事を思い出し、陽一郎は自分を恥じた。


「その節は、お恥ずかしい姿をお目にかけ申し訳ありませんでした」

「いやいや」


 翁は優しく微笑んだ。


「そこでわしは考えたのだが、姫さまのお力を借りるのはどうかと思ってな」

「は?」


 陽一郎は耳を疑った。翁は今、何と言った?


「まさか、村の者に姫さまを会わせたのですか?」

「お声だけじゃ」

「声?」


 陽一郎はますます眉をひそめた。


「さすがに、お姿をお見せするのは気が引けての」


 翁は、頭を掻いた。


「だいぶ打ちひしがれて苦しんでおった若者だったが、声だけでも心が和んだと言って喜んでおった」

「翁」


 陽一郎は、翁の方へぐっと体を寄せた。


「二度とそのような事はなさいませぬよう。切にお願いいたします」

「なぜじゃ?」


 翁には分かってもらえないようだった。


「うぐいす姫は普通のお方ではありません。村の者たちに知れたら、御身が危ない」

「そうであろうか。この村の若者はそなたのように頼もしい者もおる」

「翁、姫を守るためです。お願いいたします」

「そなたがそれほどまで云うのであれば、承知いたしました」


 翁は頷いた。陽一郎は、翁が理解してくれたと思い、安堵した。

 しかし、その後、うぐいす姫の存在が村全体に広まって、一度、姿を見てみたいと申す輩が出てきた。

 幸いにも、山奥に住む翁の住まいは誰にも知られていない。姫の声を聞いたと云う若者は、たまたま山で会った時にお声だけ聞いた、と云うものだった。


 陽一郎の心は晴れることはなく、日に日にうぐいす姫への想いを募らせるばかりだった。



 もう一度、うぐいす姫に会いたい。


 あれほど、姿を見せてはならないと翁に忠告をしておきながら、自分が会いたくて恋焦がれている。

 とうとう我慢が出来ず翁に頼むと、彼は快く承知してくれた。


「姫も、陽一郎殿に会いたいと申しておりました」

「まことでございますか!」


 陽一郎の声は弾んだ。

 翁の暮らす屋敷は山奥にあったが、獣道を通らないといけない場所にあった。陽一郎の屋敷から直線に向かって山へ向かうため、知っている者であれば迷うことなく歩いて行ける。迷ってしまうと、なかなか山から出られない。山の恐ろしさを知っている者たちなら、誰も行かない場所にあった。


 翁の後をついて屋敷の前に出ると、門にたたずむ人がいた。


「あ…」


 陽一郎は小さく声を上げた。


「うぐいす姫…」


 うぐいす姫は白繻子の表地に紅梅の模様の小袖姿で、陽一郎の姿を見るなり、深くお辞儀をした。

 陽一郎は呆けたようにうぐいす姫を見つめた。

 姫は静かに陽一郎を出迎えてくれた。


「お待ちしておりました」


 もう一度深くお辞儀をされ、陽一郎は慌てて会釈した。


「お久しぶりでございます」


 陽一郎は、うぐいす姫のまばゆいばかりの笑顔にうっとりと見惚れた。


「陽一郎さま、今日はゆっくりして行ってくださいませ」

「はい」


 それしか言えない。会えただけで天にも昇る心地だった。

 屋敷に案内され、ご馳走を頂く。これをうぐいす姫が作ったのかと思うと、食べるのが勿体ないくらいだ。そう云うと、うぐいす姫はクスクスと笑った。


「からかってらっしゃるのね」


 透き通るような素肌にぱっちりした目。年はまだ十五を過ぎたくらいか、陽一郎の年より、ずっと年下に見える。しかし、大人びた口調としぐさには色気があった。女性の年を聞くわけにいかず、陽一郎は自分の事を話した。

 陽一郎は今年で二十歳になる。


「まだ、結婚はされていないのですか?」


 翁に聞かれ、陽一郎は頭を掻いた。


「はい。わたしは二男だし、兄者もまだ結婚していないんです」

「兄上さまはどなたかお相手がいらっしゃるのですか」


 うぐいす姫の問いに、陽一郎は少し暗い顔になった。


「はい…」


 兄には生まれた時から決められた嫁がいたが、そんなのお構いなしに、他の女に手を出している。兄の話を自分からしてしまったことを後悔した。うぐいす姫はすぐに陽一郎の顔色に気づき、話題を変えた。


「陽一郎さま、わたくしの宝物を見てくださる?」

「もちろん、喜んで!」


 陽一郎は勇みよく答えた。うぐいす姫は立ち上がるとどこかへ行き、すぐに戻って来た。手に何かを携えている。近寄られると、いい匂いがした。

 うぐいす姫の手のひらには、瑪瑙でできた勾玉があった。

 陽一郎は息を呑んだ。


「すごい…」

「わたくしが生まれた時に握っていた物だそうです」


 値がつけられないほどの物だと分かる。うぐいす姫の手の中で脈打っているように見えた。


「大事にしているのですね」

「ええ。きっと、母上さまの形見だと思いますの」


 翁の話によると、うぐいす姫は山に捨てられていたとのことだった。


「こんな大事な物を見せて下さり、ありがとうございます」


 陽一郎がお礼を言うと、うぐいす姫は頬を染めた。酒をすすめられ、一口飲んだ。気がつけば、うぐいす姫と二人きりになっていた。翁が気を利かせてくれたのかもしれない。


 陽一郎は、息ができなくなるほど緊張したが、笑っているうぐいす姫を見ていると、このまま時が止まってしまえばよいのにと思った。


 この人のそばを離れたくない。


 恋焦がれる気持ちが膨れ上がっていく。うぐいす姫はそのことを知らない。

 陽一郎は、自分の浅ましい気持ちを後ろめたく思った。


「どうされました?」

「もう、帰ります」

「え…」


 うぐいす姫が一瞬、寂しそうな顔をした。


「残念ですわ。お送りいたします」


 引き止めてもらえず落胆する。

 翁にお礼を言って、屋敷を後にした。振り返ると、うぐいす姫の姿は小さくなるまでそこにいた。


 陽一郎は、うぐいす姫の元へ走って行きたい思いに駆られた。しかし、そんなことはできない。決して許される事ではなかった。






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