月夜烏(月の明るい晩に浮かれて鳴き出す烏)
◇◇◇
「くそ……、あっちい……」
笹岡陽一は自転車を一生懸命こぎながらぜいぜい息をした。頭の上では雲ひとつない青空が広がり、入道雲までそびえている。
夏休みに入って友達とプールへ行く約束をしたのに、入り口まで来た所で財布を忘れたことに気がついた。
友達は金を貸してやると言ってくれたが、お小遣いをそんなにもらっていない陽一は、返せるかどうかの心配をするぐらいならと断り、結局帰ることに決めた。
財布をどこに置いたのか見当もつかないが、中身があったかどうかもあやしい。
「あああ……っ」
陽一は上り坂を前に自転車を下りた。
「このままじゃ暑くて死ぬ……」
自転車をのろのろと押して歩いていると、前の方からなんだか目つきの悪い年配の男が歩いてくる。
この暑い中、長袖のシャツを着ていて、おかしいんじゃないのか? と陽一は思った。
男とは目を合わせないようにしよう。ちょっと身構えると早足にすれ違った。
「おい」
すれ違った瞬間、男が急に話しかけてきて陽一はびっくりした。
「は、はいっ」
びくっとして思わず立ち止まってしまった。
や、やばい。刃物かなんか出してきたら、どうしようっ。
あわてて周りを見たが、住宅街で誰も歩いていない。男は、陽一の真横に来てじろじろ見た。
「お前、笹岡陽一だな」
長袖の男が自分の名前を言った。
「え、な、なんで俺の名前っ」
変質者、決定!
びっくりする陽一に男が何か突き出した。
「わあっ」
陽一は思わず頭を押さえた。がしゃんと自転車が横に倒れる。
「これを受け取れ」
男が持っていたのは黒いサングラスだった。
「へ?」
おそるおそる手を下ろして男を見ると、サングラスを突きだす真剣な顔があった。
「い、いらねえよっ」
「味方になれ、と言っているんだ」
「はあっ?」
わけが分からず、陽一は倒れた自転車を起こした。
くそ、チャリに傷がついた。母さんに怒られる、と自転車に傷がないか確かめていると男が言った。
「聞いているのか、笹岡陽一」
「聞いてますよ。けど、何だよ。あんた、わけわかんないこと言ってんじゃねえよ」
「お前は笹岡陽一じゃないのか? うぐいす姫を探しているのだろう?」
男の口からうぐいす姫の名前を聞いた瞬間、陽一は自転車に飛び乗ってその場を逃げ出した。
うわーっ、い、今のはなんだっ。
おかしな男から逃げ出した陽一の心臓は激しくドキドキしていた。
実は、陽一にはどうしても理解できない記憶があった。
幼稚園に入る前からずっと自分はうぐいす姫と結婚するのだ、と思い込んでいた。
将来の夢に『うぐいす姫のお婿さん』とまで母親に書かせたくらいだ。
まあ、小学校の高学年の頃にはアホらしい夢だと思うようになっていたが。
何が、うぐいす姫だ。
自分はこれからかわいい女の子と出会って、デートしたり手をつないだりするのだ。
そんなおとぎ話、ましてやうぐいす姫なんているわけないだろ!
バカげた夢を幼い頃とはいえ、自分が語っていたとは。
思い出すだけで虫唾が走る。
なのに、たった今、変質者のおっさんはなんと言った?
うぐいす姫を探しているんだろう?
陽一は上り坂をぐいぐいと漕いで駆け上がった。
あのおっさんが出してきたサングラスなんだ? この暑い中、てめえがしろってんだ。
思い切り自転車を漕いだので、坂の上に到着した時には汗が滝のように流れていた。
「あー、もうマジ死ぬ……」
ぜいぜい言いながら近くの公園へと入った。どこか涼しい場所を探し、日陰に入ると、ちょうどそこに水飲み場があった。顔を洗うために近づく。
口に水を含んでうがいをした。生ぬるい水だったが、少しだけ気分が落ち着く。
「はあ……」
陽一はベンチにぐったりと座った。
「暑いと変質者が増えるってマジだな……」
ボーっとするには外は暑い。暑すぎた。
「帰ろ……」
陽一が身を起こしたその時、日陰から自分よりも年上の女の子が現れた。
こ、今度はなんだよっ。
身構えた陽一に女の子は話しかけてきた。
「大丈夫? 顔が赤いわ」
切れ長の目は涼しげで薄い唇は色っぽく、肌の色は透き通るように白い。
こんなきれいな子、見たことないや、と陽一はぽかんと口を開けた。
「あ、あの……」
うまく答えられないでいると、女の子は陽一の目の前に立った。長い髪の毛をひとつにくくり、黒いワンピースの膝下からは綺麗な足が伸びていた。
思いのほか胸が大きくて、陽一はどぎまぎした。
「わたし、困っているの」
「え?」
陽一は目をぱちぱちさせると、女の子は手を伸ばして突然、陽一の手のひらを握った。陽一は魂を奪われたように脱力して女の子を見つめた。
「今宵は満月なの。あなたが見つけてくれないと、わたしたちは探すすべがない。お願いよ。うぐいす姫を見つけて、もう時間がないの」
女の子の甘い声が頭に響いている。
うぐいす姫? そんなのいないよ。
陽一は無意識に答えた。しかし、女の子は首を振って、陽一の唇に人差し指を当てた。
「探してくれたら、ご褒美あげるよ」
女の子が囁く。暑さで頭が麻痺しているのに、ドキドキと胸が高鳴った。
ご褒美って……。え?
女の子は薄く笑うと、任せたわよと言った。
気がつくと、陽一は炎天下の中、一人で突っ立っていた。
そして、公園をたまたま通りかかった女性に肩を叩かれて我に返った。
「大丈夫? 生きてるよね」
通りがかりの女性は心配そうに陽一の顔を覗き込んだ。
「わあっ」
「びっ、びっくりした。脅かさないでよっ」
「ご、ごめんなさいっ」
陽一は自転車をつかむと、一目散に逃げ出した。
あああ、もうっ。
炎天下のせいで俺の頭がおかしくなったんだ、とその時は思った。




