月影(月の光)
目の前に陽一郎がいる。
晶は思わず後ずさりした。
逃げないと……。
そう思うのに、足がすくんで動けない。
それよりもなんてことだろう。
陽一郎は、舞をうぐいす姫だと思っている。
舞から帽子を受け取り、
「俺のなんだ助かったよ」
とか言いながら、舞の手を握った。
「君、すごくかわいいね」
陽一郎がでれっとした顔で言った。
舞は青ざめて手を振りほどこうとした。
晶さま助けて、と、舞が訴えてくる。
瞬間、晶はむっと口を閉じた。
――舞、我を晶さまと呼んではならぬぞ。そのまま、お主がうぐいす姫で押し通せ。
テレパシーを送ると、舞が、「えっ」と言う顔をした。
「あ、晶さ…」
晶が強く睨みつける。
「晶ちゃん、助けて」
舞が言いなおした。
「お主」
晶は二人に近寄り陽一郎の手を強引に振りほどいた。
「何すんだよ」
陽一郎が口を尖らせて晶を睨んだ。
目があったその時、晶は緊張で体が熱くなった。
「ま、舞に触るな」
「はあ?」
まるでバカにしたような目で晶を見る。
すると、陽一郎があっと声を荒げた。
「あ、お前、使者だな」
「え?」
「ほら、召使いだろ。姫を守るためなら何でもするってやつだな」
チビなのに感心な奴、と言われる。
晶はあんぐりと口を開けて陽一郎を見上げた。
「あ、あの、陽一郎さま」
「え?」
舞が話しかけると、陽一郎の顔が一変した。
目じりが下がり、でれでれと舞を見つめている。
「俺の名前知ってんの? うわ、感激」
もう一度、手を握ろうとする。
舞は慌てて後ろに下がった。
陽一郎は悲しげな顔で肩をすくめた。
「でも残念。俺の名前、陽一郎じゃないよ。陽一だよ」
「陽一郎さまではないのですか?」
「うん」
舞が困惑している。
無理もない。
晶も混乱していた。
名前が違うのは初めての事だ。
「失礼ですがお名前は」
「俺? 笹岡陽一、高校一年生。君は?」
ウキウキ答える陽一郎からさっと視線を外して、舞が晶を見た。
――舞と答えよ。
「ま、舞と申します」
「舞ちゃん、うわ、すっげ、最高にかわいい名前」
「あ、あの、陽一さま、こちらの方は…」
晶を紹介しようとすると、陽一郎は興味なさそうにちらりと晶を見た。
無礼な男だ。
晶は泣きそうな気持ちになった。
「こちらは晶ちゃんです」
「あきら? 男みたいな名前だな」
とたんに、舞がひっくり返りそうな顔で口を押さえるのが見えた。
晶は怒りで我を失いそうだったが、大きく息を吐いた。
「お主、陽一と申したな」
「ん?」
「うぐいす姫の何を知っているのだ」
「え…」
陽一郎は頭をかいて、うーんと唸った。
「実はよく分かんない」
「へ?」
舞はぽかんと口を開けた。
晶は怒りに震える手で舞の洋服をつまむと、くいと引っ張った。
「帰るぞ」
「えっ、ちょっと待ってよ、せっかく会えたのに。ライン交換しよ」
晶は大きな目を吊り上げて、舞を睨みつけた。
「舞、行くぞ」
「また会える? ねえ、待ってよ」
すがるような目で陽一郎が舞に言いよる。
晶はもう少しで叫びたい気持ちだったが、ぐっと我慢をした。
舞が申し訳なさそうに答える。
「ま、また、ご連絡いたします」
「待ってるね」
陽一郎が寂しげに手を振った。
舞が手を振るのを見届けて、晶は顔を伏せると公園を出た。次の瞬間、晶は瞬間移動をした。
冷静沈着の晶が周りも確認せず衝動的に行動を取ったのは、これが初めてだった。
目を開けた舞は自分たちの住むマンションに立っているのに気付いて両手で顔を押さえた。
「何てことでしょう…」
舞が呟くと、晶が細い肩を震わせていた。
「晶さま…」
「アホの子だ」
晶が呟く。舞は心配そうに見ていた。
「間違っていたのでしょうか。あの方は陽一郎さまではないのですか?」
舞が尋ねると、晶は息を吐いた。くるりと振り向いた晶は、白い肌が透けて見えそうなくらい青ざめていた。
「間違えてはおらぬ。我の中の鬼が、あの男を求めておるからの」
晶が胸を押さえた。
鬼が出たい出せ! とわめいている。
今宵は満月だ。
鬼を浄化できるのは月に一度。それまで体に潜む鬼を閉じ込めておかねばならない。
今、胸が痛いのは陽一郎に見向きもされなかったからだ。
「晶さま」
舞が心配そうに言った。
晶はふらふらとソファに座り込んだ。
「陽一と言ったな。奴の記憶が曖昧なのもおそらく名前のせいだ。あの半端な名前のせいで、記憶も中途半端なのだろう」
一文字違うだけで、記憶が完全でない上に、欠陥だらけの男に育っている。
いくら、晶が眼中になかったとしても、最低限の礼儀はあってよいものだ。なのに、礼儀どころか鼻で笑われた。
あんな無礼者を一六年間も見つめてきたのか。
元気にはしゃぐ姿、怒ったりドジをしたりと喜怒哀楽のある少年だった。
アホだとは思っていたが、いざ目の当たりにするとすこぶる不愉快である。
晶は今すぐ時を巻き戻して出会う前に戻りたいと思った。しかし、なぜ、彼は晶たちを見つけることができたのか。
これまで数年の時を過ごしたが、一度もうぐいす姫と陽一郎は対面したことはなかった。
何か意味があるのだろか。
陽一郎が未熟な分、薄っぺらい彼の気配を読み取ることができなかったのだろうか。
晶にとって出会いが史上最悪であったため、彼を誉める要因が一つもなかった。
「疲れた…」
晶はそう言って遠くを眺めた。
「今夜はおいしいものを作りますわ」
「何も食べたくない」
力なく答える晶に、舞は優しく肩を撫でた。
「今宵は月の使者が参ります。元気をお出しになって」
「うむ」
晶は上の空で答えた。