第1話:ハイ・エルフ、行き倒れてパンの香りを嗅ぐ
みなさんは「ハイ・エルフ」と聞いて、どんな姿を想像するだろうか。
深い緑の森の奥で、高潔にして優雅に暮らし、弓を引けば百発百中、魔法を唱えれば天変地異を起こす……そんな神秘の種族。
うん、わかる。確かにそういう同胞もたくさんいる。
だけど、声を大にして言いたい。
エルフだって人間と同じ生き物だ。お腹が空けばおにぎりやパンが食べたくなるし、食べたらちゃんと排泄だってする。
そして何より――四百年生きようが、どんくさい奴は致命的にどんくさいのだ。
これは、森の窮屈さに耐えかねて飛び出したものの、手先が不器用すぎて人間の街でのたれ死にかけた私、ユウ・カーマイン(四百歳・無職・行き倒れ)が、とある下町のパン屋に拾われて第二の人生を始める物語である。
私はユウ・カーマイン。
こう見えても、今年でだいたい四百歳くらいになるハイ・エルフだ。
数ヶ月前、あまりにも退屈で、あまりにも閉鎖的な故郷の森を飛び出した。外の世界にはきっと、私の知らない輝かしい冒険や、心躍る出会いが待っているに違いない――そんな夢と希望を胸に秘めて。
しかし、現実は非情だった。
とにかく手先がどんくさい私は、外の世界の街に辿り着いてからも、碌な職に就けずにいた。
宿屋の給仕をやればスープを客の頭からぶちまけ、荷運びをやれば段差もないところで派手に転んで荷物を壊す。どこへ行っても数日でクビを言い渡され、手元の銀貨はあっという間に底を突いた。
ハイ・エルフだからといって、霞を食べて生きていけるわけではない。ご飯も食べれば、普通に排泄だってする。生き物である以上、食べられなければ生きていけないのだ。
ついに進退窮まった私は、見知らぬ街の薄暗い裏路地で、カエルのように無様にひっくり返ってしまった。
お腹が空きすぎて、もう指一本動かせない。ああ、私はこんなところで、誰にも看取られずにのたれ死ぬのか。
薄れゆく意識のなか、私の長い耳が、上空から降ってきた声を拾った。
「あら、珍しい。エルフの行き倒れだわ」
それは、妙にのんびりとした、けれど涼やかな女性の声だった。
私は最後の力を振り絞り、這いつくばったまま声を絞り出す。
「……お、お願い……。誇り高き……ハイ・エルフの……尊厳に免じて……」
「なにかしら? 遺言?」
「……おにぎり……、あるいは、パンを……ください……。このままだと、誇り高く……餓死します……」
そこまで言って、私の視界は完全に真っ暗になった。
*
次に目を覚ましたとき、私は天国にいるのかと思った。
なぜなら、鼻腔をくすぐったのは、香ばしいバターと甘い小麦の匂いだったからだ。エルフの故郷の森には絶対にない、文明の香りがした。
「あ、気がついた? はい、スープ。ゆっくり飲みなさいね」
ベッドの脇に座っていたのは、エプロン姿のふくよかな女性だった。栗色の髪を後ろで結わえ、肝っ玉母さんのような温かい笑みを浮かべている。
私は差し出された温かいスープを、エルフの礼儀作法も忘れて一気に飲み干した。お腹の底にじんわりと熱が広がり、ようやく自分が生きている実感が湧いてくる。
「ぷはぁ……。生き返りました……。あ、あの、ここは……?」
「ゆっくり飲めって言ったのに……しょうがない子ねぇ。ここは私の店。『ひだまりパン亭』よ。私は店主のマルタ。あんたがうちの裏路地で派手にひっくり返ってたから、運んできたの。まあ、四百歳近そうなしわがれ声で『おにぎり』ってうわ言を言われたときはびっくりしたけどね」
「うっ、お恥ずかしい……。私はユウ・カーマイン。一応、ハイ・エルフです」
ベッドから起き上がり、耳をぺこりと下げて名乗る。
マルタさんは「知ってるわよ、その綺麗な金髪と尖った耳を見ればね」と笑い、それから少し真面目な顔で私の細い腕を見た。
「で行き倒れのエルフさん。これからどうするの? 宿代もなさそうだけど」
「ぐっ……、返す言葉もありません。実は、職を探して森を出たのですが、何をやってもどんくさくてクビになり……。もしよければ、ここで働かせていただけないでしょうか! 水汲みでも、皿洗いでも、なんでもします!」
私はベッドの上で土下座の姿勢をとった。ハイ・エルフのプライド? そんなものは数日前に空腹と引き換えにどこかへ投げ捨ててある。
「うちでねぇ……。まあ、ちょうど朝の焼き上がりの時間に手が足りてなかったのは事実だけど。でもエルフって、こういう泥臭い仕事は嫌いなんじゃないの?」
「とんでもない! 食べられるなら喜んで泥もすすります!」
「はは、気に入ったわ。じゃあ、明日から試用期間ね。どんくさいのは、私が叩き直してあげるわよ」
マルタさんのそのありがたい言葉が、すべての始まりだった。
*
そして翌朝、私はさっそく「叩き直される」最初の洗礼を受けることになった。
「あわわわわっ!?」
ガシャガシャガシャーン!!
静かな厨房に、何かが激しく転がる音が響き渡る。私は朝一番の仕事である「洗い終わった食器の片付け」の最中に、盛大につまずいてお盆ごとひっくり返したのだ。
またクビだ。今度こそ飢え死にだ。そう絶望して頭を抱えた私に、マルタさんのため息が降ってくる。
「まったく、初日から派手にやってくれたねぇ。怪我はないかい?」
「うぅ……申し訳ありません……。あ、あれ? 割れて、ない……?」
床に散らばった器を恐る恐る確認して、私は目を丸くした。幸い、お皿やお椀はすべて木製だった。
「当たり前でしょ、うちは大衆向けのパン屋なんだから。あんた、器が全部パリンと割れる陶器製だとでも思ったのかい?」
「あ、はい……。そういえば、故郷の黄金樹の森に立ち寄った旅商人さんから聞いたことがあります。人間の世界でも陶器は高価で、よほどの高級店か貴族様以外は使っていないとかなんとか……」
床にペタンと座り込んだまま器を拾い集める私を見て、マルタさんはおかしそうに鼻を鳴らした。
「へぇ、よくそんなこと知ってるね。エルフってもっと、人間の文化なんて興味ないって顔してるもんだと思ってたよ」
「あはは……。私は昔から外の世界のことを知りたがりで、森の人たちからは『変わり者』扱いされて浮いていたんです。みんな、森から一歩も出ずに一生を終えるのが普通ですから。私が生まれてから寿命で死んだハイ・エルフなんて、見たことないですけども」
四百年の間、「あいつは変なエルフだ」と言われ続けた過去を思い出し、私は苦笑いする。
でも、その変わり者だったからこそ、私は今こうして人間の街にいて、マルタさんの美味しいスープに救われたのだ。
「ふうん。変わり者、ねぇ」
マルタさんは腰に手を当て、床の上の私をじっと見下ろした。その目が、少しだけ値探りするような、けれど温かい光を帯びる。
「じゃあ、その『変わり者』の知識が、うちのパン屋で役に立つかどうか、試してみようかね」
マルタさんはそう言うと、厨房の奥へと私を誘った。
そこに並んでいたのは、ずんぐりとした大きな二つの木樽だった。どうやらここは本格的なパン屋で、粉から店で作るらしい。
「うちはね、小麦の粒の状態で買い付けて、店で粉に挽くところからやってるんだよ。さて、ユウ。この二つの樽に入った小麦を見比べて、何か気づくことはあるかい?」
パカッと蓋が開けられ、中から香ばしい穀物の匂いが立ち上る。
私は樽の中に視線を落とした。見た目はどちらも、よくある普通の茶色い小麦の粒だ。
けれど、樽から漂うわずかな残り香を嗅いだ瞬間、私の鼻がピクリと動いた。
「……くんくん」
私は両方の樽にそれぞれ手を差し入れ、小麦の粒を両手にすくって、じっくりと嗅ぎ比べてみる。
「……マルタさん。左の樽の小麦は、ちょっと痩せた土地で作られたものだと思います」
「ほう?」
マルタさんの声のトーンが変わった。私は確信を持って言葉を続ける。
「右は、水分が豊富で肥えた土地で採れた小麦です。これを一緒に混ぜて粉にしてしまうと、お互いの良さが喧嘩して雑味が出ると思います……特に左の痩せた土地の小麦は、野生味が強くて少しエグみがあるはずです。けれどその分、穀物の力強い香りが残っています。これは普通の白いパンにするより、味の濃いパンに使うのがいいと思います」
一気に語り終えて目を開けると、私はハッと我に返った。
やってしまった。新入りの分際で、プロのパン屋の店主に偉そうに意見を言うなんて。
「あ、あの! すみません、調子に乗りました! クビにしないでください!」
慌てて小麦を樽に戻し、ペコペコと頭を下げる私に、マルタさんはしばらく呆然とした視線を向けていたが、やがてその顔がニィッと豪快に歪んだ。
「……クビにするわけないだろ! あんた、やっぱりただの変わり者じゃないね! これ、別々の業者から仕入れたやつなんだよ。いつもは混ぜて安く売ってたんだけど、あんたの言う通り、なんだか最近味がぼやけるねって常連さんと話してたところさ。エルフの鼻ってのは、大したもんだねぇ!」
マルタさんは私の背中をバチーン! と叩いた。痛い。
「んじゃ、これ挽いてみな」
マルタさんが厨房の隅に据えられた大きな石の碾き臼を指さした。
「お任せください。エルフの底力、お見せします!」
私は腕まくりをして、気合十分で碾き臼の取っ手を掴んだ。ふんぬっ、と足を踏ん張って力を込める。
「んんん……ぎぎぎぎぎ……!」
……おかしい。びくともしない。
全身の体重をかけ、顔を真っ赤にして引っ張るが、石臼はまるで地面から生えているかのように微動だにしない。
「……んんーーーっ! ぬ、ぬおおお……っ!」
「はい、そこまで。やっぱりそっちはダメか」
マルタさんはあっさりと私の肩を叩き、厨房の奥に向かって声を張り上げた。
「おーい、ドリー! 仕事だよ、ちょっとこっち来ておくれ!」
はーい、という野太い地鳴りのような返事がして、奥の扉からドスン、ドスンと巨体が現れた。
そこにいたのは、白く清潔なエプロンと制服をきっちりと身にまとってはいたが、緑色の肌に突き出た牙、筋骨隆々の巨体を誇る、まごうことなきオークだった。
「あ、あわわわわわっ!?豚頭鬼!? た、食べないでえええ!」
私は腰を抜かして床にヘタり込み、涙目で両手を突き出した。
「食べないよ」
ドリーと呼ばれたオークは、心底めんどくさそうに呆れた声を出し、大きな手で自分のエプロンの埃を払った。
「おいおいマルタ、なんだいこのお騒がせな尖り耳は。俺は人間用のパンは焼くけど、エルフの生肉なんて趣味じゃないよ。だいたい、俺はベジタリアンだ」
「ごめんよドリー。この子、昨日裏路地で行き倒れてたハイ・エルフのユウ。今日からここで働くことになったから、よろしくね」
「ハイ・エルフねぇ……。鼻と口ばっかり達者で、腕力はからっきしってわけか」
ドリーはふんっと鼻を鳴らすと、私が全体重をかけても動かなかった石臼の取っ手を、片手でひょいと掴んだ。そして、ゴロゴロゴロ……と、まるで軽いおもちゃでも回すかのように、軽快な音を立てて碾き臼を回し始めた。
「あわわわ……」
私はただただ呆然と見上げるしかなかった。そんな私に、マルタさんが苦笑しながら手を差し伸べてくれる。
「ドリー程度で驚いてちゃ、この街、いや、この国で生きていけないよ」
グイッと力強く引っ張られ、私はようやく床から立ち上がった。マルタさんは私の服についた埃をパッパと払ってくれる。
「なんせこの国は、百五十年前に英雄王様が周辺地域を説得して建国した、商人の国、マルセークだ。市場に行けば獣人だのケンタウロスだのハーピーだのが商売やってる。休日にでも図書館に行って、歴史を調べてみるんだね」
「ケンタウロスに、ハーピーまで……?」
その言葉に、私は思わず自分の長い耳を震わせた。
森の外の世界が、自分の想像よりも遥かに多様で、混沌としていて、そして――なんて面白そうなのだろう。
変わり者と呼ばれ、森の窮屈さに耐えかねて飛び出してきた私だ。どんくさくて行き倒れはしたけれど、この胸の奥にある好奇心だけは、四百年経った今でも少しも衰えてはいなかった。
「なるほど、マルセーク、ですか……。はい、今度の休みに必ず図書館へ行ってみます!」
「ふふ、返事だけはいい怪力なしのエルフさん。じゃあ、世界史の勉強の前に、まずはうちのパン屋の仕事を覚えること! ドリー、さっきユウが言った通りの仕分けで粉を挽いておくれ。今日は新しい試作パンを焼くよ!」
「あいよ」
ドリーが太い腕を鳴らして応える。
小麦の香りと、石臼の回る音。そしてオークの同僚と、肝っ玉母さんの店主。
私はごくりと唾を飲み込み、自分のエプロンをきゅっと結び直した。
ここが、私の新しい居場所。
どんくさいハイ・エルフの、波乱万丈パン屋ライフが、いよいよ幕を開けたのだった。




