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まだ名前のない距離 30 触れそうで触れない、その境界線のまま

夜風が少しだけ強くなって、

街灯の光が揺れた。


◇


影も、それに合わせて揺れる。


◇


ふたりの影は、

ときどき重なって、

ときどき離れる。


◇


◇


ユイは、その揺れを見ていた。


◇


自分の影なのに、

どこか他人みたいに見える瞬間がある。


◇


◇


「ねえ」


◇


今度は、さっきより少しだけはっきりした声。


◇


◇


レンは横目で見る。


◇


「なに」


◇


◇


ユイは前を向いたまま続ける。


◇


◇


「こういうのってさ」


◇


◇


言いかけて、少し止まる。


◇


言葉を探しているというより、

言葉にすると壊れそうで迷っている感じだった。


◇


◇


「戻れるのかな」


◇


◇


◇


レンはすぐには答えない。


◇


歩く音だけが少しだけ先に進む。


◇


◇


「戻るって?」


◇


◇


◇


ユイは視線を落とす。


◇


◇


「前みたいに、とか」


◇


「なかったことに、とか」


◇


◇


◇


その言葉は、少しだけ街の音に溶けた。


◇


◇


レンは小さく息を吐く。


◇


◇


「無理じゃない?」


◇


◇


◇


あまりにも普通の言い方だった。


◇


◇


でも、その普通さが逆に優しかった。


◇


◇


ユイは少しだけ顔を上げる。


◇


◇


「だよね」


◇


◇


◇


その一言で、何かを諦めたわけじゃない。


◇


ただ、形を変えただけだった。


◇


◇


レンは続ける。


◇


◇


「でもさ」


◇


◇


「消す必要もないんじゃない」


◇


◇


◇


ユイは足を止めそうになって、

でも止まらないまま聞いている。


◇


◇


「残ってても、歩けるし」


◇


◇


「歩いてるうちに、変わるし」


◇


◇


◇


ユイは小さく笑う。


◇


◇


「またそれ」


◇


◇


「適当」


◇


◇


◇


レンも少しだけ笑う。


◇


◇


「でも、たぶん本当」


◇


◇


◇


沈黙が一度だけ落ちる。


◇


◇


でもそれは重くない。


◇


むしろ、少しだけ柔らかい。


◇


◇


◇


信号が遠くで青に変わる。


◇


◇


その光に照らされて、

ふたりの影が一瞬だけ同じ形になる。


◇


◇


そしてまた、ずれる。


◇


◇


◇


ユイは小さくつぶやく。


◇


◇


「このままでいいのかな」


◇


◇


◇


レンは少し前を見てから、


◇


◇


「決めなくてもいいんじゃない」


◇


◇


◇


そのまま歩き続ける。


◇


◇


◇


ユイも、少し遅れてついていく。


◇


◇


同じ歩幅で。


◇


◇


同じ夜の中を。


◇


◇


◇


まだ名前のない距離は、

確かにそこにあって、


◇


消えることもなく、

急ぐこともなく、


◇


ただふたりの間で、

静かに呼吸していた。

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