まだ名前のない距離 10
次の日の朝は、
いつもより少しだけ静かだった。
◇
目覚ましの音が、
やけに遠く感じる。
◇
◇
レンは天井を見上げたまま、
しばらく動かなかった。
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◇
「……昨日のせいだろ」
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誰に言うでもなく呟く。
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◇
あの手の温度が、
まだ少し残っている気がした。
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◇
◇
駅までの集合時間は、
いつもと同じ。
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なのに、
向かう足取りは少しだけ早い。
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◇
ホームの手前。
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人の流れの中に、
見覚えのある影があった。
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◇
「おはよ」
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ユイが先に気づく。
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◇
「おう」
◇
レンは短く返す。
◇
◇
それだけなのに、
少しだけ間が空く。
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◇
昨日の続きみたいな空気が、
そこにそのまま残っていた。
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◇
「なんかさ」
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ユイが歩き出しながら言う。
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「ん?」
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◇
「今日も、変な感じする」
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◇
レンは一瞬だけ黙ってから、
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「慣れろよ」
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◇
そう言った。
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◇
ユイは小さく笑う。
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「無理かも」
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◇
◇
電車の中。
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いつもより少しだけ、
距離が近い。
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◇
昨日までは気にならなかったはずの距離が、
今日はやけに意識される。
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揺れた瞬間。
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肩が軽く触れる。
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ユイが一瞬だけ固まる。
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◇
レンは気づかないふりをした。
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◇
でも——
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自分の耳が少し熱くなるのは、
隠しきれなかった。
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◇
◇
「ねえ」
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ユイが小さく呼ぶ。
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◇
「なんだよ」
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◇
「昨日さ」
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◇
そこで一度止まる。
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◇
視線が合わないまま、
言葉だけが続く。
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◇
「……また、明日って言ったの、
ちょっと嬉しかった」
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◇
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レンはすぐに返せなかった。
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電車の音が、
やけに大きく聞こえる。
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◇
「……そっか」
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ようやく、それだけ。
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◇
ユイはそれ以上何も言わない。
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でも、
少しだけ口元が緩んでいた。
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◇
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駅に着く。
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いつものように改札へ向かう。
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別れの場所が近づくたびに、
空気が少しだけ変わる。
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「じゃあな」
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レンが先に言う。
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「うん、また」
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ユイが頷く。
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でも今日は、
すぐには離れなかった。
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◇
一歩だけ、
ユイが近づく。
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「明日もね」
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◇
小さな声。
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◇
レンは一瞬だけ目を見開いて、
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「……おう」
◇
◇
それだけ言った。
◇
◇
◇
改札を抜けるユイの背中を見ながら、
レンは思う。
◇
◇
昨日よりも、
確かに近い。
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◇
でもまだ名前はない。
◇
◇
ただ——
◇
この距離が続いてほしいと、
少しだけ思ってしまった。




