まだ名前のない距離 8(続き)
家に着いても、
レンはすぐに部屋の電気をつけなかった。
玄関に背中を預けて、
スマホの画面だけがぼんやりと光っている。
◇
さっきのやり取りが、まだ残っていた。
『次、会った時に』
その一文だけで、
やけに頭の中が静かにならない。
◇
(次って、いつだよ)
思わずそう考えて、
すぐに自分で苦笑する。
◇
「……別に、いつでもいいだろ」
誰に言うでもなく呟く。
なのに、その“いつでも”の中に、
少しだけ期待が混ざっているのがわかる。
◇
靴を脱いで、部屋に上がる。
ようやく電気をつけると、
いつも通りの景色が広がる。
変わらないはずなのに、
どこかだけ違って見えた。
◇
ポケットからスマホを取り出す。
画面を開く。
トークは、そこで止まったまま。
◇
——送るか?
一瞬だけ考える。
でも、指は動かない。
◇
(いや、ここで送ったら負けだろ)
何に対してなのかもわからないまま、
そんな意地が顔を出す。
◇
そのとき。
また、震えた。
◇
「……は?」
思わず声が出る。
また、ユイ。
◇
『お風呂入るから』
『その前に』
◇
一拍。
◇
『ちゃんと帰れたって言って』
◇
レンは、数秒固まる。
◇
(さっき言っただろ……)
そう思うのに。
◇
なぜか、
もう一度ちゃんと返したくなる。
◇
指が、今度は迷わず動く。
◇
『帰った』
『今、家』
◇
送信。
◇
既読。
早い。
◇
『よかった』
◇
それだけ。
それだけなのに——
◇
胸の奥が、少しだけ熱くなる。
◇
「……なんなんだよ、ほんと」
今度は、さっきよりも小さく笑う。
◇
少しして、また通知。
◇
『じゃあ』
『またね』
◇
終わりの合図。
いつもの、軽いやつ。
◇
だけど、今日は少し違う気がして。
◇
レンは、画面を見たまま少しだけ考える。
◇
そして——
◇
『おう』
◇
送ってから、
一瞬だけ、迷う。
◇
(……これでいいのか?)
◇
少しだけ、物足りない。
◇
その感覚に気づいた瞬間、
レンはもう一度、画面を開いた。
◇
指が、ほんの少しだけ躊躇してから——
◇
『次、いつ?』
◇
送信。
◇
——やっちまった。
◇
ベッドに倒れ込む。
天井を見上げながら、片手で顔を覆う。
◇
「……はぁ」
ため息なのか、笑いなのか。
自分でもよくわからない音が漏れる。
◇
スマホは、まだ静かだ。
◇
数秒。
いや、体感ではもっと長い。
◇
やがて、震える。
◇
レンはすぐには見ない。
わざと、少しだけ間を置く。
◇
そして、ゆっくり画面を開く。
◇
『明日』
◇
短い一言。
◇
でも——
◇
その一言で、
一気に距離が縮まった気がした。
◇
「……早すぎだろ」
思わず笑う。
◇
でも、その顔は、
少しだけ嬉しそうだった。
◇
“途中”は、まだ終わらない。
むしろ、
少しずつ形を持ち始めている。
◇
明日。
それはただの時間の続きじゃない。
◇
名前のないこの距離に、
何かが足される日になるかもしれない。
◇
まだ、名前のない距離。
でも——
もう、ただの“途中”じゃない。




