まだ、名前のない距離 8
夜風は、思っていたより冷たかった。
さっきまで隣にあった体温が、
そのまま引き抜かれたみたいに。
◇
レンはポケットに手を突っ込んだまま、
しばらく動かなかった。
人はまばらで、
さっきまでの電車の気配ももうない。
ただ、さっきの言葉だけが残っている。
——わかんないままでも、いい時。
◇
(あいつ、ずるいよな)
ふと、そんなことを思う。
答えを出さないくせに、
逃げてもいない。
距離を取っているようで、
どこか踏み込んでくる。
◇
「……なんなんだよ」
小さく呟いてみても、
当然、返事はない。
◇
帰ろうと足を動かしかけた、そのとき。
ポケットの中でスマホが震えた。
◇
画面を見る。
ユイ。
それだけで、ほんの少しだけ心拍が変わる。
◇
『ちゃんと帰れてる?』
短い一文。
さっき別れたばかりなのに。
◇
レンは一瞬、打つ手を止める。
何て返すか考えている自分に気づいて、
少しだけ笑いそうになる。
◇
『帰るとこ』
それだけ送る。
そっけない。
でも、それ以上も出てこない。
◇
既読は、すぐについた。
そして、少し間があって——
『そっか』
『なら安心』
◇
また、それだ。
さっきと同じ言葉。
でも、今度は文字なのに、
やっぱり同じ温度で伝わってくる。
◇
(安心ってなんだよ)
心の中でそう思うのに、
少しだけ胸の奥が緩む。
◇
さらにメッセージが来る。
『ねえ』
『さっきの続き、さ』
◇
レンの指が、止まる。
電車の中で聞けなかったその言葉。
◇
『まだ途中だから』
◇
それだけ。
それだけなのに。
◇
レンは思わず、ため息をつく。
困ったような、でもどこか軽い。
◇
『だから?』
打ちながら、自分でもわかっている。
これは続きを聞きたいってことだ。
◇
既読。
少し長めの間。
◇
『次、会った時に』
◇
——は?
◇
レンは思わず、画面を見つめる。
逃げられた、というより、
預けられた感じ。
◇
(またそれかよ)
でも、不思議と嫌じゃない。
むしろ——
◇
「……楽しみにしてる自分がいるの、なんなんだよ」
小さく笑う。
◇
『忘れるなよ』
気づけば、そんなメッセージを送っていた。
◇
すぐに返ってくる。
『忘れないよ』
『レンのことだから』
◇
その一言で、
少しだけ、距離が近づいた気がした。
◇
夜の道を歩き出す。
さっきまでより、少しだけ足取りが軽い。
◇
わからないまま。
でも、確実に何かは動いている。
◇
“途中”は、まだ続いている。
むしろ——
◇
ここからが、少しずつ始まっていくのかもしれない。
◇
まだ、名前のない距離。
それは今、
言葉よりも先に、形になりかけている。




