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まだ、名前のない距離 8

夜風は、思っていたより冷たかった。


さっきまで隣にあった体温が、

そのまま引き抜かれたみたいに。



レンはポケットに手を突っ込んだまま、

しばらく動かなかった。


人はまばらで、

さっきまでの電車の気配ももうない。


ただ、さっきの言葉だけが残っている。


——わかんないままでも、いい時。



(あいつ、ずるいよな)


ふと、そんなことを思う。


答えを出さないくせに、

逃げてもいない。


距離を取っているようで、

どこか踏み込んでくる。



「……なんなんだよ」


小さく呟いてみても、

当然、返事はない。



帰ろうと足を動かしかけた、そのとき。


ポケットの中でスマホが震えた。



画面を見る。


ユイ。


それだけで、ほんの少しだけ心拍が変わる。



『ちゃんと帰れてる?』


短い一文。


さっき別れたばかりなのに。



レンは一瞬、打つ手を止める。


何て返すか考えている自分に気づいて、

少しだけ笑いそうになる。



『帰るとこ』


それだけ送る。


そっけない。


でも、それ以上も出てこない。



既読は、すぐについた。


そして、少し間があって——


『そっか』


『なら安心』



また、それだ。


さっきと同じ言葉。


でも、今度は文字なのに、

やっぱり同じ温度で伝わってくる。



(安心ってなんだよ)


心の中でそう思うのに、

少しだけ胸の奥が緩む。



さらにメッセージが来る。


『ねえ』


『さっきの続き、さ』



レンの指が、止まる。


電車の中で聞けなかったその言葉。



『まだ途中だから』



それだけ。


それだけなのに。



レンは思わず、ため息をつく。


困ったような、でもどこか軽い。



『だから?』


打ちながら、自分でもわかっている。


これは続きを聞きたいってことだ。



既読。


少し長めの間。



『次、会った時に』



——は?



レンは思わず、画面を見つめる。


逃げられた、というより、

預けられた感じ。



(またそれかよ)


でも、不思議と嫌じゃない。


むしろ——



「……楽しみにしてる自分がいるの、なんなんだよ」


小さく笑う。



『忘れるなよ』


気づけば、そんなメッセージを送っていた。



すぐに返ってくる。


『忘れないよ』


『レンのことだから』



その一言で、


少しだけ、距離が近づいた気がした。



夜の道を歩き出す。


さっきまでより、少しだけ足取りが軽い。



わからないまま。


でも、確実に何かは動いている。



“途中”は、まだ続いている。


むしろ——



ここからが、少しずつ始まっていくのかもしれない。



まだ、名前のない距離。


それは今、

言葉よりも先に、形になりかけている。

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