まだ、名前のない距離 5(続き)
次の日の朝は、少しだけ静かだった。
いや、正確には“静かすぎた”。
レンはいつもより早く教室に着いていたが、ユイはまだいない。
それだけで、昨日までの空気が薄くなった気がする。
(別に、普通だろ)
そう思うのに、落ち着かない。
◇
窓の外では、いつも通りの朝の音がしている。
部活の掛け声、廊下の足音、遠くの笑い声。
全部、普通。
でもレンの中だけが、少しだけズレていた。
◇
「おはよ」
声。
振り返ると、ユイが立っていた。
昨日と同じように、何事もなかった顔で。
「……おう」
「早いね」
「お前もな」
「たまたま」
そう言って、ユイは自分の席に座る。
その一連の動きが、妙に“整いすぎている”。
◇
レンは気づく。
(昨日までの方が、むしろ普通じゃなかったのか)
踏み込んでくる距離。
曖昧な接触。
意味のある沈黙。
それがない今の方が、逆に不自然だ。
◇
昼前。
黒板の文字をぼんやり見ていたとき。
「ねえ」
後ろから声。
「……なんだよ」
「今日さ」
「うん」
「放課後、少しだけ時間ある?」
レンは一瞬だけ間を空ける。
「あるけど」
「じゃあ来て」
「どこに」
「昨日のとこ」
それだけ言って、ユイは前を向いた。
◇
放課後。
廊下は少しだけ騒がしい。
それでも、二人が向かう場所は昨日と同じだった。
人気のない階段。
少しだけ湿った空気。
◇
ユイはまた一段上に座る。
今度は、最初からレンの方を見ている。
「今日さ」
「うん」
「昨日みたいにしない」
「何が」
「近づいたりとか」
「……は?」
レンは眉をひそめる。
「なんだそれ」
「気分」
あっさりした言い方。
◇
レンは少しだけイラつく。
「お前さ、それ何なんだよ」
「何が」
「近づいたり、離れたり」
「別に」
「別にって顔してねえだろ」
その言葉に、ユイは少しだけ目を細めた。
◇
「レンってさ」
「……あ?」
「ちゃんと気づくんだね」
「当たり前だろ」
「じゃあさ」
ユイは膝を抱える。
「気づいた上で、どうする?」
◇
沈黙。
風が階段の隙間を抜けていく音だけが残る。
レンは答えられない。
いや、正確には。
答えが“ない”のではなく、
言葉にするのが面倒だった。
◇
ユイは立ち上がる。
今度は、昨日と逆。
一段下に降りる。
目線が同じ高さになる。
◇
「レン」
「なんだよ」
「たぶんね」
少しだけ笑う。
「私もよくわかってない」
◇
その一言で、空気が変わる。
ずっと“わかってる側”みたいに見えていたユイが、
初めて同じ場所に立った気がした。
◇
「でもさ」
ユイは一歩だけ近づく。
昨日よりは遠くて、今日よりは近い。
その中間。
「このままでいいとは思ってない」
◇
レンは息を止める。
心臓の音が、少しだけうるさい。
◇
ユイはそのまま階段を降りていく。
振り返らないまま。
でも最後に一言だけ。
「また明日、ちゃんと続き考えよ」
◇
レンはその場に残る。
一人。
なのに、さっきより距離が近い気がした。
◇
(こいつ、本当にずるいな)
そう思った瞬間。
もう一つだけ気づく。
(俺も、逃げてない)
◇
まだ名前のない距離。
でも確実に、形だけは変わり続けている。
終わる方向ではなく、
どこかへ向かう方向に。




