第42話
「な、何だ?」
突如響いてきた振動に、九十九とガルムは恐る恐る地上に顔を出した。隣接するモールの方から、少ないが土煙が舞っている。
……結構老朽化していたしなぁ。この雨だし、バレていないよな? 強制退去とか勘弁だぞ。
「……にしても、黒月さん遅いな。既読もつかないし」
「……ゥルル?(ピクッ)」
「ん? どうしたガルム? っておい⁉︎」
いきなり走り出したガルムに慌て、九十九も仕方なく後を追う。そして事故現場に到着して、絶句した。
「……は?」
赤一色の廊下は、崩落して三階まで吹き抜けになっている。鼻が曲がるほどの鉄の臭い。そう何度も見たくはない人間の断面図。天井から上半身が落ちてきたのに驚き、九十九は我に返った。ガルムが一枚のドアの前で、悲しげな声を出している。血で滑らないように近づいた九十九は、意を決してドアを開いた。
「だ、大丈夫ですか〜――っ⁉︎ ……ぇ、く、黒月さん?」
「ッ見ないで! 見ないでっ‼︎」
っ何だ? 何があった⁉︎ 彼女の額に生える角と、縦に割れた紅い瞳孔。九十九の頭の中に湧き上がる、幾つもの疑問。しかし同時に気づく。明らかに人為的に裂かれた胸元に。彼女が必死に隠そうとしている、夥しい数のリストカット痕に。何より、異常に怯えた彼女の姿を見れば、だいたいの状況は把握できる。
……そういうことか。九十九は自身の不甲斐なさに苛立ちながら、瓦礫の下からカーテンを引きずり出す。
「どうしようっ、倭絆くんっ、私っ、私ッ、助けてっ、助けてよぉ」
「大丈夫。大丈夫だよ。ほら、一緒に深呼吸してみよう?」
くしゃくしゃに顔を歪ませる黒月の体を、九十九はカーテンで包む。
……異能とは、当人が潜在的に必要としている力。思えば彼女が内に秘める暴力性は、初めて会った時から僕にSOSを出していた。……普通の人間は、笑いながら殺し合いなんてできない。
九十九の憐憫と後悔を孕んだ目を見て、黒月の紅い瞳から涙が溢れる。
「っそんな、そんな目で見ないで⁉︎ 分かっているわよ私だって! 汚い人間なのよ! でも、どうしようもないのよ‼︎ 幸せになりたいのにっ、でもどんどん辛くなって、だから全部殺しちゃおうって、だから、だか、ら……ぁれ? でもそしてら、依絆くんに嫌われちゃう。私、また一人に……嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だッ⁉︎」
ヒステリックを起こした黒月が、目を見開き手首を掻き毟る。
抉れる肉を見て顔を悲痛に歪めた九十九は、無理やり彼女の片腕を掴んだ。
「っ離して、ッ⁉︎」
そしてそのまま彼女の頭に手を添え、そっと自分の胸に押し当てる。
……ようやく分かった。僕が彼女を安心させるために使っていた言葉は、逆に彼女の心を傷つけていた。恥を知れ九十九 倭絆。恥を知れッ。
彼が自身の行いに歯噛みする一方、黒月は緊張と羞恥から動けなくなっていた。彼女の腹の中で渦巻いていた行き場のない地獄が、抱擁一つで上書きされる。
「……い、倭絆、くん?」
「一人は嫌なのに離せと言ったり、助けてほしいのに拒絶したり、矛盾の塊だな」
「だって、だって私」
「気持ち良いんだもんね? そんな自分を、認めてほしいんだもんね?」
「っ……」
理解されない行きすぎた感情。黒月の手首がジクリと痛む。しかし、
「良いじゃんそれで。何がダメなの?」
「……ぇ?」
顔を上げた黒月は、微笑む九十九の顔を見つめる。
「黒月さんがそこまで悩んでいるんだから、それは黒月さんにとって、とても大切なことなんでしょ? だったらちゃんと大切にしてあげなよ、その欲求を」
「……でも、倭絆くん、快楽で人を殺す人が嫌いって、そしたら私っ」
「嫌わないよ。嫌うわけないだろ? じゃあ黒月さんは、道端を歩いている女子供を笑顔で殺すの?」
「殺さない」
「僕が嫌いなのはそういう人種ね。それに、僕は黒月さんの悩みを理解できるし、許容もできる。他の誰でもない黒月さんだから、僕は今ここにいるんだよ」
「っ、」
「……と言っても、ずっとこのままじゃ辛いだけだろうし。……要するに、愛してほしいのに、人を殺すと興奮しちゃって、本当の自分が分からなくなって、承認されない不安と孤独感に耐えられなくなっている。ってことだよね? ハハっ、似てるなぁ僕達」
縋るように見つめてくる潤んだ瞳に、九十九は優しく微笑む。
「良いよ。僕がその欲求の捌け口になる」
「……へ?」
「褒めてほしい時は褒めてあげる。慰めてほしい時は慰めてあげる。胸を貸してほしい時は、いつでも胸を貸してあげる。僕だけで黒月さんを満たせるように努力するから、黒月さんは僕だけを見ていて。捨てたくなったら、いつでも捨ててもらって構わないから。いつか一人で立てるようになるまで、僕を都合良く使ってよ」
九十九は彼女の手首にそっと手を添え、見開かれる瞳に苦笑した。
「……それとも、僕の好意だけじゃ足りない?」
――限界であった。九十九の両手首を掴んだ黒月が、そのまま彼を床に押し倒す。
……荒い息と静かな息が、互いの鼻先をくすぐり合う。
「……痛いよ。黒月さん」
「ハァ、ハァ、ハァ、ッ……倭絆くんが、悪いんだから」
彼女の口元に、黒髪が数本、じっとりと張り付いている。浴びた返り血と黒髪のコントラストが、やけに淫靡に映る。黒月の瞳は、まるで獲物を逃がすまいとする捕食者のよう。縦に割れた紅い瞳孔が、九十九の顔を見下ろす。その瞳に浮かぶのは陶酔か? 歓喜か? 否、ただただ快楽に満ちた、狂気である。
紅潮した頬。熱に浮かされたような湿った吐息。僅かに開いた唇が、淫らに艶めく。押さえつけられた手首から、彼女の火照った体温が伝わってくる。汗ばんだ肌の香りが、血の臭いに溶けて、甘く脳を痺れさせる。死が充満する空間で、僕達だけが別の時間を生きているかのような錯覚。唇の端を舌でぺろりと舐めるその仕草に、九十九の本能が警鐘を鳴らした。
「……アイギス」
「きゃっ⁉︎」
唇を近づけようとした黒月に、触腕が巻きつき羽交い締めにする。九十九は彼女のはだけた胸元から視線を逸らし、埃をはたいて立ち上がった。
「答え辛かったら構いません。乱暴はされませんでしたか?」
「……されていないわよ」
不満気な顔でユラユラと吊られている黒月。とりあえず良かったと安心した九十九は、どうしたものかと辺りを見回し、そこで気づいた。隣の部屋の端っこから、小さく呻き声が聞こえる。近づいてみると、瓦礫に押し潰された男が、息も絶え絶えにもがいていた。
「……これで死なないのか。再生持ちかな?」
「あら、リーダーさんじゃない。生きていたの」
「で、ベェ、ごぉず、ごぉずっ!」
九十九はポリポリと頬を掻き、ホルダーから拳銃を抜いた。
「まっ⁉︎ やべッギャ⁉︎ ギャ⁉︎ ベッ⁉︎ ァギャッぃだッヒギィッびゃッ⁉︎」
室内に連続する発砲音。カチッ、カチッ、という弾切れの音を最後に、九十九は動かなくなった肉塊から興味を失った。
「再生持ちでも頭を潰せば死ぬのか。良いことを知れた」
「……」
「……何で嬉しそうなの?」
九十九はマガジンを取り換えながら、彼女と笑い合った。
「ご迷惑おかけしました。損害賠償や慰謝料につきましては、後日改めて連絡させていただきます」
頭を下げる鴉の代表に、九十九も事務的に対応する。周囲では鴉の作業員達が、偽装工作や復旧作業に勤しんでいる。本当に何でもできるなこの人達。
「それと、体調が優れないようでしたら、本日のイベントを欠席することもできます。本来ならペナルティが発生しますが、事情が事情ですので、何も問題はありません。例の件も、こちらで全て対処可能ですが、いかがいたしましょう?」
「バカね。私達が断ると思う?」
戦闘服に着替えた黒月が、腕を組んで歩いてくる。
「体調は? 怪我とか大丈夫?」
「最高に良いわ。あの姿になると治癒力も上がるみたい。擦り傷一つ残っていないわ」
「いよいよ化物染みてきたな」
小突かれる九十九に、鴉代表もどこか嬉しそうな雰囲気を出す。
「……やはりあなた方は超新星だ。本日のイベントも、是非楽しんでくださいませ」
そこへ一台のリムジンが到着する。……全員同じ面を被っているのに、この鴉だけは見分けがついてしまう。最早顔馴染みだ。顔無いのに。
「九十九様の周りにいると、話題が尽きませんね? 是非とも個人契約を」
「また今度で」
鴉が開けてくれたドアを潜り、二人は車に乗り込んだ。




