第19話
翌日から、九十九はいつも通りの日常を送った。
昨日出くわしたクラスメイト達からは、当然のように「彼女なの⁉︎」「どこの学校の人⁉」「どこまでいったの⁉︎」などと質問攻めにされたが、おさななじみ、という万能の一言で何とか乗り切った。
授業を受け、昼食をとり、誰かに声をかけられたら笑顔を返す。
そんないつも通りの日常の中、九十九の感情は、ずっと新しい日常に向いていた。
現実が非現実に、非現実が現実になっていく。
ふとした瞬間に、あの緊張と興奮を思い出す。TERRARIUMで過ごした数時間が、生きてきた十七年間を一気に追い抜いてしまった。
その変化は、人間関係にも表れていた。
「九十九君! ヤバいんだよ頼む宿題見せてくれ‼︎」
「またー? ……じゃあ、今日の昼ラーメン奢ってね?」
「お! 良いぜ任せろ!」
「チャーハン餃子セットで」
「ぐっ……いや、今までの借りもあるし、安いもんだ‼︎」
九十九は苦笑しつつ、宿題を大慌てで写す彼の健闘を祈った。
「暑い〜誰か手伝えよ〜男がやれよ〜。あ、九十九くーん!」
「はぁ、体育委員の仕事でしょ? それに僕のこと選んで呼んでるでしょ?」
「えへへ〜、だって九十九君優しいんだもん。それに見なよあの男共。か弱い女子が重い物運んでるってのに、助けようともしないんだよ⁉︎」
「言われてるぞー」
「俺らが何だって⁉︎」「やってやろうじゃねぇか‼︎」「筋肉ナメんなよこの野郎‼︎」
張り切る男衆に全部任せ、九十九は日陰に戻った。
「九十九様九十九様、おにぎりを、おにぎりを恵んでください」
「あーごめん。お金使いすぎって母さんに怒られちゃってさ、もう奢れないんだ」
「え、……マジで? あー、そっか」
去っていく彼の背中を見送った九十九の肩に、クラスメイトの肘が乗せられる。
「うわ、まだあいつとつるんでたん? ずっと九十九君にたかってた奴だろ?」
「まぁ、もう寄ってこないとは思うけど」
「友達は選んだ方が良いぜ? 九十九君なんて優しくて金持ってんだから、尚更よ」
「それ宿題写しまくってる君が言う? じゃあ今日から他人ね」
「ちょーいちょいちょいちょい⁉︎ 食券買ったるから! ほら好きなもん食いな!」
今までなんとなく引き受けていた雑用や、気乗りしない誘いを、ほんの少しだけ上手く断れるようになった。
期待に応えるべき人、応える必要のない人、応えたい人を、自分で選べるようになっていた。
その取捨選択が、人間関係の基本なのだと九十九は知り始めていた。
そして不思議なことに、それでも人が離れることはなかった。
寧ろ、適度な距離感が生まれ、呼吸がし易くなったとすら思っていた。
九十九は先生の声を聞き流しながら、自分の席から窓の外の青空を眺める。
……死ぬような思いをしたからか、友達というものを知ったからか、きっかけは分からない。ただ一つ言えるのは、僕がこの日常も好きになれたのは、TERRARIUMのおかげだということだ。
終会が終わり、教室から出た九十九はローファーに履き替え、ロータリーを進む。とその時、後ろから肩を叩かれた。
振り向くと、
「やっ!」
片手を上げる春國が、良い笑顔で立っていた。
「こんにちは先生、よく会いますね」
「迷惑だったかな?」
「まさか。春先生は僕の恩師と言っても良い存在ですから。一昨々日のこととか」
「おっとっと! 九十九君頼むよっ。そのことは約束したでしょっ?」
下校する生徒に手を振り返す春國を横目に、九十九は笑う。
二人で並木道を歩きながら、軽く雑談を交わす。
「先生は毎日あそこへ?」
「だからっ……はぁ。別に毎日ってわけじゃないよ。ストレスが溜まったら、たま〜に行くだけ。あともうちょっと小さい声で頼むよ。どこに目があるか分からないんだから」
「PTAにバレでもしたら、解雇どころか社会的に死にますもんね」
「分かっているならこの話やめない?」
「はっはっは」
「はっはっはじゃないよ⁉︎」
高笑いする九十九の横で、春國は手の平で顔を覆う。
「予期せずして先生の弱みを握ったわけですが、どう有効活用するか悩みますね」
「悪魔かい君は? しかし聡明な君にしては、少々杜撰な脅しだね。私も同様のカードを持っていることを、忘れていやしないかい?」
「……」
「九十九君のお母様は、実に教育熱心な方だと聞く。大事な一人息子が、夜な夜な家を抜け出して、あんなこの世の掃き溜めみたいな場所に行っていると知ったら、ど〜〜なっちゃうんだろうな〜? あ〜怖いな〜怖いな〜」
「……ふっ。お互い、夜道に気をつけましょうね」
「ハハッ、仲良くできそうだね〜、私達」
改札の前で互いに握手を交わし、「……ぷっ」と吹き出してしまう。
何で春先生が生徒から人気があるのか、分かった気がする。良くも悪くも、目線が近いのだ。僕達と。
「では、さようなら」と改札を潜ろうとした九十九を、
「……ねぇ九十九君」
ふと春國が呼び止める。
九十九が振り返った先で、春國が優し気な笑みを浮かべていた。
「何か良いことあった?」
「……何でですか?」
「え? だって、笑い方が変わっているから。なんていうか、自然になった?」
九十九は自分の頬に手を当て、グニグニと動かしてみる。
……確かに、TERRARIUMから帰ってきてから、無理に笑った記憶がない。教師っていうのは、そんなところまで見ているものなのか。
九十九は人差し指で頬の両端を上げ、ぎこちない笑みを作った。
「別にありませんよ。強いて言えば、先生から見識を得たくらいです」
「ハハっ、あの夜の言葉に、それほどの感銘を受けてくれたのかい?」
「いつ、どこで、誰に、何を言われたかが重要なんです。少なくとも、あの日の春先生の言葉には、僕の人生を好転させるだけの力がありました」
驚きに目をパチクリさせる春國は、しかしどこか納得したように微笑んだ。
「今日ほど教師をやっていて、良かったと思った日はないよ」
「お互い得をしたようで、何よりです。では、」
「うん。また明日!」
嬉しそうに手を振る春國に一礼し、九十九は改札を潜った。




