第39話 裏切り
翌朝。帝国製薬本社・役員会議室。
テーブルを囲む役員たちの間にはどこか落ち着かない緊張感が漂っていた。ビギナーズポーションの供給ラインが正常化したという吉報は届いているものの、その過程で行われた異例の対応について、明確な説明がなされていないからだ。
その沈黙を破ったのは営業担当役員だった。
彼は卓上の書類を一回、パンと手で叩き、冷ややかな視線を向かいの黒木へと向けた。
「黒木本部長。製造ラインが稼働したこと自体は結構なことだ。だが……今回の件、経営企画の独断が過ぎるのではないか?」
静まり返る室内に、営業担当役員の詰問が響く。
「問題点は二つある。一つはビギナーズポーションの販売価格を百円へと引き上げたことだ。あれは八十円という圧倒的な安さだからこそ市場を席巻していた。値上げを断行すれば、せっかく獲得した市場に動揺と混乱を招く」
営業担当役員はそこで言葉を切り、周囲の役員たちの顔色を伺うように見回してから、さらに畳みかけた。
「そしてもう一つ。より重大なのは我が社をすでに退職した佐伯氏を、独断で第一開発部の製造現場へ呼び戻したことだ。社外の人間を許可なく重要拠点へ立ち入らせ、現場を調整させる……これほどガバナンスを軽視した場当たり的な対応があるか。焦って判断を誤ったと言わざるを得ない」
役員たちから微かなざわめきが起こる。
だが、追及を受けた当の黒木は微動だにしなかった。
焦りの色は一切ない。背筋を伸ばし、淡々と手元の資料を開く。
「現状の製造ラインの維持コストと物流負荷を考慮した上での判断だ。八十円という数字を維持することだけが正解ではない」
黒木は迷いのない口調で言葉を紡ぐ。
「また、佐伯氏を現場にお招きしたのは、品質低下を迅速に防ぎ、安定供給を取り戻すためだ。あのままでは現場での不良品発生を抑えきれず、最悪の場合、商品を使用する冒険者に健康被害が出るおそれがあった。企業の危機管理として、必要な判断だ」
「しかし!」
営業担当役員が即座に言葉を覆いかぶせる。
「佐伯氏はすでに我が社を去った外部の人間だ! その人間に頼らなければまともな製造もできない組織体制そのものが、経営として大いに問題なのではないか? それほど彼が必要なら、なぜ最初から再雇用せず、現場に一度呼ぶだけで済ませたのだ?」
黒木は首を振った。
「彼が会社に戻ることを望んでいないからだ。彼はすでに自身の足で立ち、自分のやり方で薬を作ることを選んでいる。今回来てもらったのも、あくまで我が社の商品を買い求める冒険者の安全を守るため……彼の善意によるものだ」
「善意、だと……? 経営の場にそのような曖昧な感情を持ち込むな!」
営業担当役員は苛立ちを露わにし、再び卓上を叩いた。
「とにかく、価格は即座に八十円へ戻すべきだ。値を上げれば競合に顧客を奪われる。これまで築いてきたシェアを自ら手放す気か!」
息を荒らげる営業担当役員に対し、それまで静観していた財務担当役員が口を開いた。
「――それは販売側の、少々偏った論理だな」
営業担当役員が眉をひそめて振り返る。
「財務の視点から言わせてもらえば、八十円のまま販売規模を維持し続けること自体が、すでに限界を迎えていた。無理なコスト圧縮が現場に歪みを生み、今回の品質問題を招いた背景の一つでもある。利益率を無視した薄利多売を維持することが、本当に会社にとって最善と言えるのかね?」
「なっ……」
財務担当役員からの不意の指摘に、営業担当役員は言葉を詰まらせた。
だが、彼はまだ引き下がらない。
「しかし……! 少なくとも、これほど重大な価格改定と社外の人間の現場介入を、黒木本部長が一人の判断で進めたプロセスの不透明さは看過できない!」
営業担当役員が最後の追及に出ようとしたところで、上座から声が飛んだ。
「その点なら問題ない」
会議室の全員の視線が一斉に専務へと集まる。
「佐伯氏を現場へ招く緊急性と必要性についても事前に説明を受けている。私が了承した」
「専務……? ですが、そのような話は受けて……」
「価格改定の件も同様だ」
専務は営業担当役員の動揺を一切気に留めず、力強く言い放った。
「現状の疲弊した製造現場と市場の健全化を踏まえれば、妥当な判断だと考えている。私は黒木本部長の決定を支持する」
静寂が会議室を支配した。
黒木は手元の資料を閉じる。
「以上だ。ビギナーズポーションの価格改定、および製造ラインの運用改定は予定通り進める」
異論を唱える者は、もう誰もいなかった。
会議終了後。
役員会議室で営業担当役員は一人、顔を歪めていた。
「……フン。まあいい。こんな泥舟に残る理由もなくなった」
営業担当役員は淡々とポケットから一通の封筒を取り出すと、用意していた辞職届をデスクの上に残し、一切の未練を切り捨てるように部屋を後にした。
◇
その日の夜。
荻野が立ち上げを進めている新会社。
「これで……約束通りです、荻野部長……いえ荻野社長」
元営業担当役員は革張りのソファに深く腰掛ける荻野の前に、厚みのあるアタッシュケースを滑らせた。中には、帝国製薬から持ち出した内部資料がぎっしりと詰まっている。
今後の販売戦略、主要な顧客・取引先リスト、未発表の商品計画、物流ルートの契約内容――帝国製薬の命綱とも言える極秘情報だった。
「これだけの情報があれば、新会社でも十分に帝国製薬に対抗できる。あんな古い会社、すぐに追い詰められますよ」
自慢げに笑う元営業担当役員に対し、荻野は無言でアタッシュケースを開き、資料に目を通した。
だが、その顔に笑みはない。
読み進めるにつれ、荻野の眉間に深いシワが刻まれ、整えられた表情が急速に引きつっていく。
「……おや。これは、どういうことでしょうか」
荻野の声から、いつもの余裕が消え落ちていく。
「え?」
「第一製造ラインのトラブルが解決した、と書いてありますね……? ビギナーズポーションの供給が再開された、と。なぜですか? 現場の技師たちには、あの欠陥手順書通りにしか作れないはずですよ」
「あ、ああ……それですが」
営業担当役員は少し言いにくそうに口ごもった。
「黒木が……退職した佐伯を現場へ呼んだらしい。やつが数時間ほど現場を見たら、第二、第三ロットの揮発問題が綺麗に収まったそうだ」
「…………はい?」
荻野の手から資料が滑り落ちそうになった。
常に浮かべていた柔和な笑みが、完全に消え去る。
(佐伯が……帝国製薬を助けた……!?)
頭の中で組み立てていた完璧なシナリオが、ガラガラと音を立てて崩れ去っていくのを荻野は感じていた。
(あいつは……どこまでおめでたい頭をしているんですか……! なぜ自分を捨てた会社を助けるんです……!?)
荻野の背筋に冷や汗が伝わる。
「荻野社長? どうしました? まあ、ラインが復旧したとはいえ、この機密情報があればこちらが優位に立てることに変わりはありません。帝国製薬の次の手を先回りして潰せば――」
「……なんてものを持ってきてくれたんですか、あなたは」
荻野は元営業担当役員を睨みつけた。その瞳が揺れ、血走っている。
「え……?」
「今すぐ燃やしてください。こんなもの、一刻も早く」
荻野は低い声で言い放った。
「今、帝国製薬を無駄に刺激してどうするんですか。帝国製薬から持ち出された機密情報を使ったと知られれば、こちらまで法的責任を問われるんですよ? 佐伯が現場を立て直した以上、向こうの経営体制は揺らぎません。持っているだけでも、ただのリスクでしかありません」
「し、しかし……! これだけの情報を集めるのにどれだけ苦労したか……!」
「いいから燃やしてください、と言っているんです。余計な証拠を残さないでいただけますか?」
元営業担当役員は言葉を失った。
荻野の焦りが予想以上だった。
「……フン、臆病者め」
荻野の焦りようを見て、元営業担当役員は鼻で笑った。
(こんな貴重な資料、燃やして捨てるわけがないでしょう。今後、荻野が私を切り捨てようとしたとき、あるいは帝国製薬と交渉するときの強固なカードになる)
その夜。自宅へと戻った元営業担当役員は、書斎の奥に据え付けられた金庫へ向かった。
暗証番号を入力し、重い金属音とともに金庫の扉を開ける。
その闇の中へ、アタッシュケースを押し込んだ。
「……あって損はない」
パチン、と乾いた音が響く。




