第38話 佐伯という名の錬金術師
早朝の冷たい空気が満ちる黒塗りの車内には、重苦しい静寂が満ちていた。
「……本当に、来てくれるとは思わなかった」
後部座席で膝の上に拳を置き、黒木本部長がぽつりと呟いた。
かつての威圧感も計算高さもない。ただ自らの過ちと窮地に打ちひしがれた男の、弱り切った声だった。
「困っているなら、見てみないことには分かりませんからね。現場で何が起きているのか、確認しに行くだけですよ」
窓の外を流れる街並みを眺めながら、俺は穏やかに首を振った。
正直、帝国製薬を救うなんて大層な気はさらさらない。
ただ、まっとうな薬が作られず、それを使った誰かが現場で命を落とすかもしれない――そう思うと、長年この仕事をしてきた身としてはどうしても放っておけなかった。それだけだ。
三人を乗せた車は懐かしい第一開発部の搬入口へと滑り込んだ。
重い防音ドアを開けると、ツンとする薬品特有の刺激臭と、大釜から立ち上るぬるい蒸気の香りが鼻を突いた。
「佐伯さん……」
作業台に並んでいた若手や技師たちが手を止め、一斉に俺を見た。
ピリッとした緊張感が現場に走る。みんな、気まずいのだろう。俺を追い出すような形になってしまったことを気に病んでいる顔つきだ。
「みなさん、お邪魔します。……さっそくですが、作業を見せてもらってもいいですか?」
俺はいつもの癖で、作業着の袖を軽く捲り上げた。
「は、はい! よろしくお願いします!」
青ざめた顔の若手技師が緊張で声を裏返らせながら一歩前へ出た。
「佐伯さん、僕たちは決して手を抜いているわけではありません。手順書通りに原材料を配合し、抽出温度も時間も、完璧にマニュアルを守っています」
「ええ、分かっていますよ。みなさんが真面目に作っているのは、作業場を見ればすぐに分かります」
器具の整理整頓も、床の清掃も行き届いている。みんな一生懸命だ。
「手順そのものは何一つ間違っていません。ただ……手順書に書いていないところで、ほんの少しずつズレが生じているみたいですね」
「手順書に……書いていないところ?」
不思議そうに首をかしげる若手に、俺は下処理台の上に並べられた薬草の山を示した。
「例えば……この薬草の選別です」
俺は廃棄用の箱の中から、葉の端が少し黄色く変色した薬草を一本拾い上げた。
「あ、それは規格外として弾いたものです! 葉の変色率は10%以下という規定がありますから」
「うん、弾く判断自体はマニュアル通りです。でもね、これは捨てなくても大丈夫ですよ」
腰のポーチから使い慣れたナイフを取り出し、指先で葉を撫でてみる。乾いた質感の奥に、確かな弾力が残っている。
「表面が少し焼けているだけで、内部の繊維にはしっかり魔力が残っています。ここを斜めに切り落として、残った部分を普段より少しだけ細かめに刻めば、十分に使えます」
「えっ……? で、ですが、それでは抽出温度が変わってしまいませんか?」
「だから、刻み方で調整するんです。粗く切ると成分が出にくいですが、細かく刻めば低温でも綺麗に溶け出しますから」
トントンと軽快な音を立てて、ナイフを滑らせる。寸分の狂いもない厚みに揃えるのは、長年手で覚えてきた作業だ。
今度は逆に、良品として分類されていた山から、瑞々しい緑色をした薬草を一本抜き取った。
「逆に……こっちは駄目ですね」
「え? それは一番状態が良い等級Aの薬草ですよ! 色も鮮やかですし、傷一つありません」
「表面だけ見るとそうですね。でも、ここ……茎の根元を触ってみてください」
若手が恐る恐る指先を伸ばし、俺が示した部分に触れた。
「……あ、少し……柔らかい?」
「ええ。内側から少し腐り始めています。雨の日に収穫されたものが、乾燥不足のまま保管されるとこうなるんです。見た目が綺麗だからとこれを混ぜてしまうと、抽出液全体に微小な濁りが生じて、第二、第三ロットの有効成分が一気に揮発してしまう原因になります」
ナイフを入れて腐敗した芯をくり抜くと、ツンとした酸っぱい匂いが微かに漂った。
「こういうのは、混ぜないほうがいい。……まあ、慣れてくると握った感触や、匂いの微妙な青くささの違いで分かるようになりますよ」
「匂いと……感触で……!?」
若手が目を見開いて絶句している。
「あ、それと……この茎も捨てなくていいですよ」
若手が丸ごとゴミ箱に捨てようとしていた太い茎を指差す。
「でも、手順書では茎部分は抽出の雑味になるため廃棄となっています!」
「全体をそのまま入れると雑味になります。でも、この固い皮をすっと剥いて、芯の白い部分だけを残せば……ほら」
皮を剥がすと、清涼感のある香りがふっと立ち上った。
「ここにも回復成分が詰まっているんです」
「……こんな使い方、手順書にはどこにも載っていません」
「薬草は生き物ですからね。同じ種類でも、その日の天気や保管状態で一本一本違います。手順書はあくまで基準であって、最後は目の前の状態を見て判断するんですよ」
俺が微笑むと、若手技師たちは息をのんだまま黙り込んでしまった。
「次は……抽出釜ですね」
下処理を教え終え、俺は巨大な銀色の抽出釜へと移動した。
「温度や圧力のログは問題なさそうですね。……うん、綺麗に管理されています」
若手がほっと胸を撫で下ろしかけた瞬間、俺は釜の投入口に顔を近づけ、クンクンと嗅いでみた。僅かに、焦げついたような甘ったるい匂いが残っている。
「……でも、釜の洗浄をもう一度やりましょうか」
「えっ!? 洗浄ですか? ログを見てください、自動洗浄プログラムは完了していますし、魔法触媒による殺菌処理もパスしています!」
「目で見ると綺麗なんですけどね」
俺は袖を捲り上げると、まだ温かい釜の中に素手を差し入れた。
内壁の滑らかな金属面に手のひらを滑らせ、底の継ぎ目の溝に指を押し当てる。
「ここです。指先に、わずかにザラつきがありますでしょう?」
「ザラつき……?」
若手におずおずと手を突っ込ませ、同じ場所を触らせてみる。
「あ……本当だ。何か……固いものが……?」
「前の工程で使った薬草の、結晶化した魔力成分です。自動洗浄の超音波では、この継ぎ目の奥まで届かないことがあるんですよ」
俺は苦笑しながら、手元にあった木製のスクレーパーを取った。
「これが残っていると、新しい材料を熱したときに、前の魔力が溶け出して干渉してしまうんです。第一ロットは耐えられても、二回、三回と加熱するうちに残った魔力が熱を帯びて、新しく入れた薬草の有効成分を焼き飛ばしてしまう……。これが揮発の原因でしょうね」
「そんな……自動洗浄のエラーログには、何も出ていなかったのに……!」
「機械は洗った時間しか記録できませんからね」
俺はスクレーパーを若手に手渡した。
「一度、自分で洗ってみますか? 継ぎ目に沿って、斜め四十五度で力を入れずに滑らせるんです。感覚を手に覚えてもらうのが一番早いですから」
「は、はい! やってみます!」
横からそっと手に添えて力を抜かせる。
「あ、力を入れすぎないで。撫でるように……そう、上手です。その感覚ですよ」
「あ……取れた! 薄い膜みたいなものが剥がれました!」
「素晴らしい。これで大丈夫です。……ね? 理由が分かれば、難しいことじゃないでしょう?」
作業を見守りながら、ふと視線を感じて振り返ると、桐島が目頭を押さえるようにしてこちらを見ていた。
(……桐島君もすっかり頼もしくなったな)
昔、俺の後ろを必死についてきていた頃を思い出し、なんだか少し誇らしい気分になった。
「――抽出、完了しました!」
数時間後。下処理から釜の洗浄までを丁寧に行い直した新しいロットが完成した。
ガラス瓶が第一検査室の分析器へ掛けられる。
みんなが息をのんでモニターを見つめる中、桐島が確定ボタンを押した。
ピピッ、と電子音が響く。
『分析完了。有効成分含有量――社内標準値を大幅に上回っています。』
「……第二ロット、第三ロットのサンプルはどうだ!?」
『第二ロット:基準値内(揮発なし)/ 第三ロット:基準値内(揮発なし)』
「「「おおおおおっ……!!」」」
検査室に歓声が爆発した。若手たちが抱き合って喜んでいる。
「……全部、安定している。第一ロットだけじゃない。第二も、第三も……」
桐島が声を震わせて画面を見つめていた。
「よかったですね。これでちゃんと効くポーションが作れます」
俺はふぅと汗を拭い、用意してもらっていた温かいお茶をすすった。うん、無事に原因が分かってよかった。これでひと安心だ。
だが、なぜか黒木本部長だけは信じられないものを見るような目で俺を凝視していた。
◇
それから数日後。
ビギナーズポーションの出荷は無事に再開され、現場の混乱も収まったという報告を聞いた。
作業着を脱ぎ、自分の小さなカバンを肩にかけた俺は、見送ってくれる桐島や若手たちにお辞儀をした。
「それじゃあ、俺はこれで失礼しますね」
「佐伯さん」
廊下へ出ると、黒木本部長が歩み寄ってきた。
「あ、黒木本部長。出荷、持ち直したみたいですね。若手のみなさんがすごく呑み込みが早くて助かりましたよ」
俺が笑いかけると、黒木本部長は目を細め、静かに首を振った。
「……君は昔から何も変わっていないみたいだな」
「そうですか? 最近少し腰が痛むようになりましたけど」
「そういう意味ではない」
深く溜め息をつく姿に、俺は少し首をかしげる。
「会社の利益でも、自分の評価や報酬でもない。君が見ているのは……最初から最後まで、薬と、それを使う人間だけだ」
黒木本部長は何かを耐えるような顔で言った。
「……君を失ったことが、どれほどの過ちだったのか。今になって、痛いほど理解できた」
「まあ、過ぎたことですから。俺は今の生活が気にいっていますし」
「……佐伯さん。これからも、我が社の現場を……」
すがりつくような視線に、俺は困って苦笑いを浮かべた。
「若い人たちが、もうしっかりとコツを掴んでくれましたから。大丈夫ですよ。彼らならもう、品質の落ちたポーションを作ることはありません」
俺は手を軽く振ると、夕暮れの沈む街へと歩き出した。
お店の準備もあるし、早く帰って夕飯の支度をしなければ。
◇
翌朝。帝国製薬本社の役員フロア。
製造ラインの正常化を伝える報告書を前に、営業担当役員は冷ややかな視線を落としていた。
「……黒木の奴、佐伯の力を借りただと?」
営業担当役員は報告書の端を握りつぶした。




