第37話 三度目の訪問
帝国製薬・第一開発部
検査室には重苦しい沈黙が立ち込めていた。
「……また不合格ですか」
作業台の上に並べられたガラス瓶を見つめ、桐島は乾いた吐息を漏らした。
瓶の中で淡い緑色に光る『ビギナーズポーション』。だが、成分分析計が弾き出した数値は社内規定の最低基準を下回っていた。
「第一ロットは基準値をクリアしたのに、第二、第三ロットで急激に有効成分が揮発しています。これでは商品として出荷できません」
横に立つ若手技師が青ざめた顔で端末のデータを手繰る。
「……昨日までこんなことはなかったのに」
「いえ、昨日まで問題がなかったんじゃないです」
桐島は自嘲気味に呟き、不合格のボトルを固く握りしめた。
「荻野部長たちが問題になる前に現場で潰していたんです……」
熟練の研究員や技師十数名が一斉に退職してから、わずか数日。
現場に残されたのは、マニュアルの文字面しか追えない若手と、上からの増産指示だけだった。
「本日製造分のうち、四割近くが出荷基準を満たしていません。このままでは……明日予定している分の出荷量を確保できません」
検査室のドアが開き、重々しい足音が響く。
経営企画本部長――黒木だった。
「品質異常の報告を受けた。本当か、桐島君」
「……はい。規定値に届かないボトルが多発しています」
黒木は落ち窪んだ目で不合格のボトルを見つめた。
経営陣からの過酷な増産命令、技術中核の離脱による現場の混乱、そして品質の破綻。
黒木が一人の男の名をポツリと呟く。
「佐伯なら……」
原材料の乾燥度の違い、薬草の切り口の角度、季節による水の質の変化――手順書には書けないわずかな工程差まで五感で察知して完璧な品質を維持し続けていた男。
「……いや」
黒木は即座にその考えを打ち消し、強く拳を握りしめた。
自分はあの男を非効率だと切り捨て、会社から追い出したのだ。
その後、二度も高額な条件を提示して戻そうとし、断られるや否や、彼の市場を潰すためにビギナーズポーションをぶつけた。
今さらどのツラを下げて頼めるというのか。頼むこと自体が、合理的な判断からかけ離れている。
「……私には、あの男に頭を下げる資格などない」
黒木が漏らした独白を、桐島は聞き逃さなかった。
「……本部長。佐伯さんのところへ行きましょう」
「簡単に言うな!」
黒木は感情を抑えきれず、低い声を張り上げた。
「二度も断られたんだぞ! その上、我が社は彼の販売ルートを潰そうと圧力をかけたのだ! 今さら助けを求めて、引き受けてもらえる道理がどこにある!」
「断られるかもしれません。……でも、お願いするべきです」
桐島は真っ直ぐに黒木を見つめ返した。
「佐伯さんは……帝国製薬のために薬を作っていたわけじゃありません」
「……何?」
「薬を必要としている人のために作っていたんです。今、ポーションの品質が落ちて一番困るのは会社ではありません。それを使う冒険者たちです」
黒木は言葉を詰まらせた。桐島は言葉を続ける。
「僕が三年間、佐伯さんの工程を追いかけても、結局再現できませんでした。佐伯さんが当たり前だと思っていたことの一つ一つが、僕たちには当たり前じゃなかったんです。……だから、今ここで薬の品質が落ちて冒険者が危険に晒されていると知ったら、佐伯さんは放っておかないと思います。会社のためじゃなく……人を救うために」
検査室に、機械の作動音だけが虚しく響く。
黒木は目を閉じ、深く吐息を漏らした。
(私なら、自分を追い詰めた会社など絶対に助けはしない。……だが)
黒木はゆっくりと目を開けた。その瞳には駆け引きや計算ではない、窮地に追い詰められた者の覚悟が宿っていた。
「……行こう。私から頼む」
午前七時。
作業場の小さなテレビから、女性アナウンサーの落ち着いた声が流れていた。
『――続いてのニュースです。大手製薬メーカー帝国製薬において、製造ラインの中核を担っていた社員十数名が、相次いで一斉退職していたことが判明しました。関係者によりますと、現場の混乱から一部主要商品の生産に影響が出ているとの情報もあり――』
「十数人も一気に……」
俺はリモコンのボタンを押し、テレビの電源を切った。
コンロの上で煮立つ薬草水のグツグツという低い音と、青くささの残る澄んだ蒸気の香りが漂う。
(きちんと引き継がれているのだろうか……)
屋外から砂利を踏みしめる靴音が聞こえた。
トントン、と遠慮がちなノックの音が引き戸を揺らす。
「……はい」
手をタオルで拭い、玄関の引き戸を開ける。ガラガラという音とともに朝日が差し込み、二人の男が立っていた。
一人は高級なスーツにしわを寄せた男――帝国製薬の黒木本部長。
もう一人はかつて俺の下で作業を見ていた若手研究員の桐島君だった。
「……黒木本部長。それに、桐島君」
手ぶらのまま、ただ硬い表情で立つ二人を畳敷きの小さな居間へ案内する。
黒木は正座すると、俺に向かって深々と頭を下げた。
「佐伯君……いや、佐伯さん。身勝手極まりないのは重々承知している。だが……お願いだ。我が社の製造現場を見てはくれないだろうか」
頭を下げ続ける黒木の姿を俺は見つめた。
「……黒木本部長。俺は会社に戻るつもりはありませんよ」
「分かっている! 会社に戻ってくれとは言わない!」
黒木は顔を上げた。その顔はやつれ、苦渋に満ちていた。
「私は君を会社に戻そうとし、断られると君の市場を潰そうとした……。そんな私が今更助けを求めるなど、虫が良すぎるのは分かっている。だが……今、現場のラインが完全に狂っているんだ。マニュアル通りに作っているにもかかわらず、出荷基準を満たせない」
黒木は悔しそうに歯を食いしばった。
「このままでは必要な数量を確保できない。そうなれば、品質の落ちたポーションが冒険者たちの手に渡ることになりかねない。私を咎めるのはどうとでもしてくれて構わない。頼む……現場を見てやってくれないか」
居間に重い沈黙が流れる。
黒木の後ろで、桐島君も深く頭を下げる。
「佐伯さん……僕たちだけでは、どこが間違っているのかすら判断できないんです。もし許してもらえるなら、僕たちにもう一度、本当の基本を教えていただけないでしょうか……!」
大釜から立ち上る白い蒸気。
俺の薬草水を買っていった駆け出し冒険者たちの顔が脳裏をよぎる。
「……困りましたね」
俺はぽつりと呟き、膝を叩いて立ち上がった。
「同じ手順で効果が出ないとなると……抽出釜の洗浄が不十分で魔力が溜まっているか、薬草の刻み方が雑で抽出温度がブレているのかもしれません。基礎的な下処理からやり直さないといけないですね」
黒木と桐島君が弾かれたように顔を上げた。
俺は作業台の上に置かれた薬草水を一本だけ手に取り、ポケットに収めた。
「じゃあ……一度、見に行きましょうか」




