第36話 すべては計画通り
帝国製薬本社・別館
応接室の扉が音もなく閉じられた。
「——いやあ、専務に増産の話を引き出させるのは苦労したよ」
ソファに深く腰掛けた営業担当役員が高級なウイスキーグラスを傾けながら目を細める。
対面に座る荻野は穏やかな笑みを崩さずに温かい茶を一口啜る。
「お疲れ様です。……ですが、専務を動かしたのは私の指示ではなく、役員会自身の正当な経営判断ですよ」
「くくっ、違いない。ここで供給を絞れば競合に市場を奪われる、せっかく構築した全国の販売網を失う、初心者層の定着率が下がる……私があれこれともっともらしいデータを突きつけてやったら、専務は自分から『増産維持だ』と叫び出したからね」
営業担当役員は可笑しそうにグラスを揺らした。
「経営陣に自ら『増産するしかない』と思い込ませる。……相変わらず、君の誘導は見事というほかないな、荻野君」
「滅相もありません。人は誰しも、積み上げた利益や実績を失う恐怖には勝てないというだけの話です。私は選択肢を並べただけですよ。どれを選ぶかは彼ら自身が決めたことです」
荻野はカップをテーブルに置いた。カチャリと音が響く。
「経営陣が合理的な判断として増産を命じれば命じるほど、現場の限界は早まる。疲弊した開発部と製造ラインからは優秀な若手から順に心が離れていく。人が抜ければ技術の継承もできない。残るのは増産に追われるだけの現場です」
「帝国製薬を直接壊す必要など、最初からなかったのですよ。会社を見限る状況さえ整えてやれば、人間は自分から去っていきます」
「ふむ……これで、ほぼ計画通りに進んでいるというわけか」
営業担当役員は感嘆の息を漏らした。
「これだけの優秀な研究員と技術をまとめて引き抜けば、新会社の立ち上がりは早い。……ところで、ひとつ気になっていたのだがね」
「なんでしょう?」
「佐伯修一のことだ。……あの男が会社を追われるよう裏で仕向けたのも、君の計算だったのか?」
営業担当役員の問いに、荻野の笑みがわずかに深まった。
「ええ、勿論です」
「だが、あの男はただの愚直な職人だろう? 上層部も『利益率が低い』『非効率だ』と評価していなかったはずだが。わざわざ君が手を下してまで排除する必要があったのかね?」
「そこがこの会社の愚かなところですよ」
荻野は静かに首を振った。
「上層部はあの男を利益率の低い部署にしがみつく古い職人にすぎないと切り捨てた。……ですが、私は違った。あの男がどれほど重要な技術を持っていたのか、分かっていましたから」
「……どういう意味だ?」
「最新設備をどれだけ揃えたところで、あの男の工程をそのまま再現することはできません。長年の経験に裏打ちされた下処理、温度管理、工程の精度……あの男が愚直に積み重ねてきた薬草加工の技術は異常なまでの高品質を叩き出していましたから」
荻野の目が冷たい光を帯びる。
「もし、今回のビギナーズポーションによる混乱の最中に、あの男が社内に残っていたらどうなっていたか。……あの男が現場の技術者たちに自分のやり方を叩き込み、壊滅的な製造ラインを根本から立て直してしまう可能性があった。そうなれば現場を疲弊させて独立するという私の計画そのものが覆されていたでしょう」
「なるほど……。佐伯は無能どころか帝国製薬を救いかねない脅威だったからこそ、真っ先に排除したというわけか」
「そういうことです。芽は早いうちに摘んでおくべきですから」
納得したように頷く営業担当役員だったが、ふと眉をひそめて首を傾げた。
「……だが、もし帝国製薬が本当に追い詰められたら、会社側が頭を下げて佐伯を呼び戻す……なんて可能性はないのかね? 万が一、あの男が戻ってきたら、新会社にとっても脅威になるのではないか?」
その問いに対し、荻野は間髪入れずに小さく笑った。
「……あり得ませんよ」
「ほう?」
「当たり前です」
荻野は自信に満ちた表情で、静かに言葉を重ねた。
「佐伯修一という男は、十五年も会社のために尽くしてきた挙句、無能の烙印を押されて放り出されたのです。帝国製薬という組織を心の底から憎んでいるはずです。自分を捨てた元勤務先がどれほど苦しもうと、手を差し伸べる理由など何ひとつ存在しませんよ」
「……まあ、確かに普通ならそうだな」
「ええ。少なくとも、帝国製薬のために動く理由などどこにもありませんよ」
荻野の言葉に迷いは一切なかった。
「……まあ、佐伯の件はいいとしよう」
営業担当役員はグラスを置き、本題の核心へ触れた。
「それより黒木だ。あいつはどうする? 今日も最後まで増産に難色を示していたが」
荻野の眉間がわずかに寄った。
「黒木本部長……。あの男は少々、頭が切れすぎますからね」
「そうだな。経営状況の把握も早ければ、今回の増産による問題点にも一番に気づいていた。……何より、君の動きに薄々勘づいている節がある」
「ええ。私を見る目が、最近少々不気味です。……ですが、問題ありません」
荻野は穏やかな微笑を取り戻した。
「今日の役員会で、企画立案者としての責任を黒木に負わせる流れになりました。これから全社的な業績悪化が表面化すれば真っ先に追及を受けるのはあの男です。経営の中心から外され、社内での影響力を失えば、もはやこちらに手を出す余裕などなくなりますよ」
「……どこまでも徹底しているな」
営業担当役員はニヤリと笑みを浮かべ、荻野に視線を送った。
「約束は忘れていないだろうな?」
「勿論です。新会社の営業部門トップの座は、あなたにお任せしますよ。帝国製薬の息がかかっていない新たな販売ルートの開拓、期待しております」
「……それならいい。最後までぬかりなくやろう」
「ええ。ただ、くれぐれも社内で感づかれないよう、最後まで慎重にお願いしますね。黒木にここから巻き返されたら、全てが台無しになりますから」
二人は頷き合い、密談を終えた。
◇
数日後。
帝国製薬の社内に激震が走った。
第一開発部部長・荻野が突然の辞表を提出。
それとほぼ同時に、第一開発部に所属する中堅・若手の精鋭研究員、そして熟練の薬草加工技師たちを含む十数名が揃って会社を去ったのである。
引き抜かれたのはいずれも第一開発部の技術の中核を担っていた人間ばかりだった。
残されたのは仕様変更に対応できず立ち尽くす製造ラインと、残された膨大な増産ノルマ、そして誰もいなくなったも同然の第一開発部執務室。
新会社の立ち上げに必要な準備は、すでに水面下で進められていた。
退職後すぐに動き出せるよう、拠点の確保や人員の受け入れ準備もすでに整えられている。
帝国製薬から引き抜いた優秀な人材と、彼ら自身が培ってきた製造ノウハウ、そして営業担当役員が密かに手引きした新たな流通ルート。
「……これでいい」
新会社として確保したばかりの設立準備室で荻野は窓の外を見下ろした。
これで準備は整った。
帝国製薬は崩壊への道を突き進み、自らは優秀な技術者集団を引き連れて立ち上がる。
もはや自分たちの躍進を止める力など、ボロボロになった帝国製薬には残っていない。




