第34話 崩れ出す均衡
トントン、トントン、とリズム良い包丁の音が工房に響く。
午前六時。朝の素材市場で仕入れてきたばかりの初級回復草を1本ずつ丁寧に洗い、ナイフで傷んだ部分を削ぎ落としては、茎の繊維を斜めに刻んでいく。
「よし……仕込みに取りかかるか」
刻んだ薬草と水を精錬窯へ投入する。
最初は強火。温度と蒸気の匂いに意識を集中させ、青くさい生草特有のエグみが消え、かすかな甘みが混ざり始めた瞬間に弱火へと戻す。
微細目のフィルターを持ち、浮き上がってきた濁りを一網一網、静かに掬い取っていく。根気よく、不純物を残さないように丁寧にすくい続ける。
蒸留器から冷たいガラス瓶へ、ポタリ、ポタリと液体が落ちる。
濁りの一切ない、澄み切った翡翠色の液体。
ろ過と瓶詰め、梱包を終える頃には、時刻は正午になろうとしていた。
正午ちょうど。端末を操作してネットショップへ出品予約ボタンを押す。
「ふう……今日も無事に全部届きそうだ。ありがたいことだな」
ひと段落ついた俺はパイプ椅子に腰掛けて昼食の準備を整えた。
作業スペースの片隅に設置した小型のテレビを点けると、昼のニュース番組の音声が流れてくる。簡単な昼飯を口に運びながら、脇に置いた端末で注文管理画面とレビュー欄を開いた。
『——続いてのニュースです。本日午前、中堅製薬メーカーである東洋薬品が東京地方裁判所に民事再生法の適用を申請したことが分かりました。同社はここ数か月、急激な業績悪化に見舞われており、今後は裁判所の監督のもとで事業の再建を目指すことになります』
箸を動かしていた俺の手が止まった。
『同社は長年にわたり、冒険者向けの標準的な回復薬を製造・販売していましたが、ここ数か月の市場価格の急激な下落に耐えきれず、資金繰りが悪化したとみられます。また、市場価格の下落を招いた一因として、数か月前に帝国製薬が発売した1本80円のビギナーズポーションが指摘されています』
画面には重苦しい表情で頭を下げている経営陣の姿が映し出されていた。
「経営破綻、か……」
俺は端末の画面に目を落とした。
『薬草水』100円。
『深層探索用・試作薬』300円。
「……俺の薬も、安すぎるのかな」
俺がこの値段を設定したのは第一に買いやすさのためだ。
金のない駆け出し冒険者や、過酷な現場で頑張る人たちに届いてほしい。
必要な人に届いて、初めて薬には価値が生まれる。
それが俺の考えだった。
ニュースの音がやけに耳に残る。
「自分が安く売っているせいで、他の薬屋さんが困ったりしているんだろうか……」
俺が作っているのは1日300本の薬草水と、30本の試作薬だけだ。何万本、何十万本と市場へ流している大手製薬会社とはわけが違う。自分が市場全体を揺るがしているとは到底思えない。それでも、価格設定の画面から目を離せなかった。
薬草水を150円や200円にするべきか。
あるいは、夜勤の人たちから「三万円でも買う」なんて極端なレビューがついていた試作薬の方も、市場の一般的な高級ポーションと同じように数千円から数万円くらいまで引き上げた方がいいんだろうか。
俺は価格設定欄を開いた。
数字を消して、新しい金額を入力する。
100。
指を止める。
150。
そこまで入力して、また手が止まった。
もし自分の価格設定が誰かの迷惑になっているなら、考え直さなきゃいけない。
けれど、値段を変える前に、レビュー欄へ目が向いた。
『手持ちの金がほとんどなくて諦めかけていた時、この100円の薬草水を見つけました。本当におかげで助かりました』
『夜勤明けの身体の重さがすっと引きました。300円でこの効果は本当にありがたいです』
『命を救われました。ありがとうございます』
スクロールしても、同じような言葉が続いている。
俺はしばらく画面を眺めていた。
「……安かったから助かったって言ってくれる人も、確かにいるんだよな」
入力した150の数字を消す。
100。
元の値段へ戻してから、価格設定画面を閉じた。
「……安易に上げるのも、なんか違う気がするな。……よし、今は答えが出ない。もう少しちゃんと考えてみよう」
自分ひとりの頭で悩んでも結論は出ない。
俺は端末を脇へ置き、残りの昼飯を口へ運んだ。
昼食を終え、俺は翌日仕込み用の薬草の下処理に取りかかるため、再び作業台の前に立った。
包丁を手に取ったところで、テレビからニュース速報のチャイム音が響いた。
『——続報です。回復薬市場での相次ぐ企業の経営悪化を受け、関係省庁は業界全体での過度な価格競争および品質・製造体制に関する特別調査を開始すると発表しました』
キャスターが手元の原稿に目を落としながら早口で読み上げていく。
『特に、急速に流通した低価格ポーションの安全性の確認を含め、関係省庁による合同調査が行われる模様です。業界最大手である帝国製薬に対しても、近く製造ログ等の資料提出要請、および立ち入り調査が入る見込みです……』
……帝国製薬。
その名前を聞いて、薬草を洗っていた俺の手が止まった。
かつて自分が長年勤め、そして切り捨てられた古巣。
「……大丈夫かな?」
もしあの会社に何かあれば、そこで作られている無数の薬が届かなくなる。困るのは会社だけじゃない。
「薬を作る会社が立ち行かなくなったら……困る人がたくさん出るだろ」
俺はテレビのリモコンを手に取り、静かに電源を切った。
画面が黒く消え、工房に静寂が戻る。
「さて……下処理を済ませるか」
包丁を持ち直し、明日使う薬草の傷んだ部分をナイフで削ぎ落としていく。
水洗いした薬草に濡れ布巾をそっとかぶせ、日陰へと保管する。
俺にできることは今日も変わらない。
目の前の薬草をきちんと扱い、薬を作る。
それだけだ。
◇
帝国製薬、経営企画本部。
プシュッと缶の呑み口を開け、黒木は強烈なカフェイン入りのエナジードリンクを喉へ流し込んだ。
疲労が張り付いた顔のまま、目の前の端末画面を見つめている。
その時、管理端末の画面右下に、一通の公式通知が静かに着信した。
【関係省庁合同調査団より資料提出要請】
【対象:ビギナーズポーション初期生産分における成分データおよび出荷ログ】
【提出期限:三営業日以内】
黒木の目が通知へ移る。
その周囲では社員たちが互いの顔を見合わせている。
誰もまだ口を開かなかった。




