第33話 破滅へのクリック
コンコン。
「どうぞ」
ドアの奥から落ち着いた声が返ってきた。
黒木はドアノブを回し、第一開発部長室へと足を踏み入れた。
整然と片付けられた執務室の奥、デスクに向かっていた男が顔を上げる。
第一開発部長、荻野。
端末の画面から目線を外した荻野は黒木の姿を認めても表情を変えなかった。
「黒木本部長。お久しぶりです、わざわざ開発棟までお越しになるとは」
荻野は穏やかに笑い、向かいの椅子へ手を向けた。
「ちょうどよかったです。先ほど役員会で増産の基本方針が決まったと連絡を受けました。何か確認事項がおありですか?」
突然の訪問であるにもかかわらず、まるで黒木が来ることを端から予測していたかのような立ち振る舞いだった。
「挨拶は省かせてもらう」
黒木は椅子に座らず、荻野を見据えた。
「……ビギナーズポーションの増産計画は直ちに止めるべきだ」
単刀直入な言葉にも荻野の表情は動かなかった。
「……理由を伺っても?」
黒木は胸ポケットから小型の端末を取り出し、データを宙に投影した。
「ビギナーズポーションの販売数が跳ね上がった地域と、既存のスタンダードポーションの販売数が減少した地域。この二つがほぼ同じタイミングで動いている」
投影された折れ線グラフを指で示す。
「さらに今日、顧客別の購買履歴を確認した。登録一年未満と分類された購入者の中に、過去数年間スタンダードポーションを購入していた既存の冒険者が大量に混じっていた」
黒木は一拍置いた。
「……これは新規市場の開拓などではない」
安価なビギナーズポーションが出回ったことでこれまで五千円のスタンダードポーションを買っていた既存顧客までもがそちらへ乗り換えている。
帝国製薬が爆発的なヒットと喜んでいたものの正体は、自社製品同士の顧客の奪い合いに過ぎないという事実だ。
その説明を聞いても荻野は一度頷いただけだった。
「なるほど」
取り乱す様子すら見せないその反応に、黒木の奥歯にうっすらと力が入る。
「『なるほど』で済む話ではないぞ、荻野部長。これは我が社が自らの手で自社商品を殺しているということだ」
黒木の声が一段低くなる。
「八十円のビギナーズポーションが市場に出回れば、顧客は当然そちらへ流れる。このまま増産を続ければ、既存のスタンダードポーションだけじゃない。他のライン、最悪の場合は上位商品の需要まで食いつぶすことになる」
黒木はグラフを睨んだ。
「競合他社を追い詰める前に、帝国製薬の収益構造そのものが崩れるぞ」
荻野は首を横に振った。
「黒木本部長のおっしゃる懸念は論理としては理解できます」
荻野はデスクの上で指を組んだ。
「ですが、既存商品の売上が落ちているからといって、勢いのある新商品の供給を止めるのは本末転倒ではありませんか? スタンダードポーションの販売減少が一時的な揺らぎなのか、それとも市場全体の需要構造が変化しているのか、現時点のデータだけで結論づけるのは拙速です」
荻野は黒木を真っ直ぐに見つめ返した。
「それに、スタンダードポーションの減少を恐れてビギナーズの供給を絞れば、空いた市場を他社に奪われます。そうなれば我が社は、既存の顧客も新規の顧客も両方失うことになる。自社商品との競合を恐れず、まずはこの圧倒的な供給力で市場全体の占有率を取り切るべきです」
隙のない反論だった。
黒木が提示したのは懸念とリスク。
荻野が提示したのは市場占有と機会損失への対処。
荻野の言葉を真っ向から突っぱねるだけの決定的な証拠が今の黒木には存在しなかった。
「……荻野部長」
黒木は言い返そうとして——言葉を詰まらせた。
落ち着き払った荻野の顔を見つめているうちに、脳裏に数か月前の光景がフラッシュバックする。
『佐伯のやり方は効率が悪すぎる。時代遅れだ』
『会社に必要なのは、もっと利益率が高く、量産性に優れた商品だ』
あの時もそうだった。この男は全く同じ顔をして、合理性を口にしていた。
私はその言葉を信じた。いや、数字だけを見れば正しい判断だったからこそ、信じたかったのかもしれない。
荻野の言葉を疑わず、佐伯を切る決裁に判を押した。
(……荻野だけの責任じゃない)
そう分かっている。分かっているからこそ、余計に腹立たしく、悔しかった。
あの時、自分がもっと慎重に数字の裏を確認していれば。佐伯本人の話をきちんと聞いていれば。あの男を失わずに済んだかもしれないのだ。
(……二度も同じ過ちを繰り返してたまるか)
黒木は静かに息を吐き出し、佐伯の幻影を払いのけた。
「……荻野部長。私は増産そのものに反対しているわけではない」
「ほう?」
「問題は、今の数字が何を意味しているのか分からないまま、供給量だけを増やしようとしていることだ」
黒木は投影されたグラフへ目を向ける。
「もしこのポーションが自社商品を食いつぶしているだけなら、増産すればするほど傷口は広がる」
視線を荻野へ戻す。
「……競合他社だけではない。帝国製薬そのものを潰しかねないぞ」
荻野はしばらく黒木を見ていた。
やがて、わずかに口元を緩める。
「貴重なご忠告、ありがとうございます」
荻野は頭を下げた。
「ですが、私は現在の増産計画に問題があるとは考えていません。むしろ、この千載一遇の機会を逃すことこそが、我が社にとって最大の損失になると確信しております」
丁寧な口調のまま、譲る気配はない。
「……そうか」
黒木はそれ以上何も言わずに身を翻した。
ドアを閉め、第一開発部長室を後にする。
廊下の冷たい空気が、熱を持った頬を撫でた。
◇
第一開発部長室。
荻野は閉じたドアへ目を向けていた。
数秒後、デスクへ視線を戻す。
端末の画面には増産計画の資料が表示されたままだ。
荻野はキーボードに指を置いた。
カチ、カチ。
規則正しい音が静かな部屋に響いていた。




