第32話 増産計画
「顧客別購買履歴の抽出ですが、サーバーへのアクセス集中と過去データの突合処理のため、完了まで二十分ほどかかります」
オペレーターの報告に、黒木は「分かった」と短く頷いた。
会議室の沈黙を破るように営業担当役員が口を開く。
「では黒木本部長、集計を待つ間に本題を進めさせてもらうぞ。ビギナーズポーションの今後の生産・販売計画についてだ」
大画面モニターの表示が切り替わる。
各地の流通網から上がってきたリアルタイムの在庫状況だ。画面上のマップには赤く点滅するアイコンがいくつも浮かんでいた。
「ご覧の通り、主要都市圏の薬局およびギルド指定売店において、ビギナーズポーションの欠品が相次いでいる。入荷待ちを求める初心者冒険者の列ができている店舗すらある状況だ」
営業担当役員は手元の端末を指で叩きながら、声を張った。
「一本八十円という価格と高いリピート率。現在の生産能力では需要に到底追いついていない。この好機を逃す手はない。直ちに専用生産ラインの増設、および現行ラインの二十四時間フル稼働体制へ移行すべきだ」
「一本あたりの利益率は薄いが、この回転数なら話は別だな」
財務担当役員が前のめりになり、計算結果の数字を指でなぞった。
「固定費の回収速度が予想を遥かに上回っている。増産によってスケールメリットを極限まで働かせれば、製造原価はさらに下がる。利益の絶対額を稼ぐ局面だ」
さらに、海外営業担当の取締役が熱を帯びた声で続ける。
「先ほど申し上げた北米および東南アジアのギルド統括法人からの大口打診ですが、あちらが求めているのは月間数百万本単位の継続供給です。現在の生産体制のままでは、海外からの注文を断ることになりかねません」
「うむ……!」
常務取締役の目が細められた。
「国内市場だけではない。海外ギルドの流通網まで押さえられる。我が社の市場支配力を一気に高める千載一遇の機会だな」
役員たちの顔がほころんでいく。
売れている。だから増産する。
増産すれば、さらに売れる。
単純明快な話だった。
「……増産判断は、少し待つべきだ」
黒木の声が割って入った。
役員たちの視線が一斉に黒木へ向く。
「待つ、だと? 何を言っているんだ黒木本部長」
営業担当役員が不機嫌そうに眉根を寄せた。
「現場からは悲鳴が上がっているんだぞ? 欠品による機会損失は一日あたり数百万単位に上る。今この瞬間にブレーキを踏む理由がどこにある」
「データを見れば分かる」
黒木は手元のタブレットを操作し、重ね合わせた二つの折れ線グラフを指した。
「ビギナーズポーションの販売数が跳ね上がった地域と、既存のスタンダードポーションの販売数が減少した地域。この二つの動きが連動している。ビギナーズポーションの販売増が本当に新規顧客の獲得によるものなのか、確認が取れていない」
「何を当たり前のことを言っている」
財務担当役員が肩をすくめた。
「顧客分析の一次データでは、購入者の大半が登録一年未満の初心者層と分類されているのだろう? ならば新規顧客の獲得と見るのが妥当だ」
「……その分類そのものを疑っている」
黒木の返答に、財務担当役員は眼鏡を直した。
「黒木本部長、君のデータに対する慎重さは買っている。だがね、経営とはタイミングだ。仮に一部で既存商品からの乗り換えがあったとしても、現時点の集計では、新規購入者の増加分がそれを十分に上回っている。全体として市場が拡大している事実に変わりはない」
「その通りだ」
常務も重々しく口を開いた。
「ビジネスにおいて最も恐れるべきは、供給不足による競合への機会譲渡だ。我が社が供給を渋れば、他社が類似の低価格品を被せてくるかもしれん。数字が伸びている今、手をこまねいている方が経営上のリスクだ」
役員たちの論理には少なくとも今の黒木には崩せるだけの穴がなかった。
目の前にあるのは爆発的な売上。
対して黒木が持ち出したのは説明のつかない違和感だけだった。
「フン……確認を怠ったまま突き進めば、取り返しのつかない大火傷を負うぞ。データが出るまで待てないのか」
「黒木本部長」
常務の声が低くなった。
「君の懸念は理解した。だが、現時点で君が提示できるのは違和感だけだ。経営判断は、不確定な可能性ではなく、現に目の前にある数字で行わねばならんのだよ」
「……」
黒木は口を結んだ。
反論する材料が足りない。
「心配はいらんよ、黒木本部長」
財務担当役員が落ち着いた笑みを浮かべた。
「設備投資に伴うコストとリサーチのリスクなら、開発側からすでに回答が出ている」
「……開発側だと?」
黒木が顔を上げる。
「そうだ。第一開発部の荻野部長だよ。彼から事前に打診があった。『現行ラインの工程見直しと触媒の調整を行えば、大規模な新規設備投資をせずとも、現行設備だけで二〇パーセント以上の増産が可能だ』とな」
黒木の眉がわずかに動いた。
(……第一開発部、荻野……)
「あの男は現場の生産ラインも熟知しているし、数字にも極めて明るい」
常務が満足げに頷く。
「今回開発したビギナーズポーションの功労者でもある。その荻野が『増産は十分に可能であり、社の方針に即座に応える準備がある』と言っているのだ。技術的な裏付けはある」
「……荻野部長が自らそう提案したのか」
「ああ。昨日の時点で増産に向けた予備検証の報告書が上がってきている」
役員たちが口々に荻野を評価する。
現場を知り、経営側の要求にも先回りして応える。今回の新製品でも成果を上げた。
(……昨日の時点で増産の検証まで?)
「よし、方向性は決まったな」
常務の声が思考を遮った。
「第一開発部の提案に沿い、まずは現行設備の限界までビギナーズポーションの増産を開始する。海外打診に向けた大規模投資の計画書も並行して作成させろ。機会を逃すな」
決裁が下りた。
「……黒木本部長。お待たせしました」
オペレーターの声が響いた。
「顧客IDと過去の購買履歴の紐付けが完了しました。画面に簡易集計を表示します」
モニターの端に、新たなデータウィンドウが立ち上がる。
役員たちが次の議題へ移ろうとする中、黒木は表示された数字に目を向けた。
画面上の購買ログを、一件ずつ追っていく。
(……違う)
ある顧客IDに目が止まった。
(この顧客は……ギルド登録日こそ半年前だが、ポーションの購入履歴は三年前からある)
黒木は履歴を遡った。
手元のペンが止まる。
ビギナーズポーションを買っているのは、新規冒険者だけではない。
ギルド登録日が新しくなった既存冒険者まで、初心者に分類されていた。
そして、その既存冒険者たちはスタンダードポーションを買っていた。
一件だけなら、特殊なケースかもしれない。
黒木は別の顧客IDを開いた。
——同じだった。
さらに別のID。
——また同じ。
黒木の指が止まった。
(……偶然じゃない)
初心者という分類そのものに、何か問題がある。
安いビギナーズポーションが発売されたことで、これまで五千円のスタンダードポーションを買っていた冒険者まで購入先を切り替えている。
「……」
黒木は画面を見つめた。
そして、先ほど聞いた荻野の話を思い出す。
『昨日の時点で、増産に向けた予備検証の報告書が上がってきている』
(……なぜ、こんなに早い?)
黒木はタブレットを閉じた。
「黒木本部長? 会議はまだ終わっていないぞ」
常務の問いかけに、黒木は立ち上がった。
「確認すべきことができた。失礼する」
役員たちの視線を背に受けながら、黒木は会議室を出た。
ドアが閉まる。
エレベーターホールで、黒木は胸ポケットから端末を取り出した。
「第一開発部、荻野部長に繋げ」
『あ、黒木本部長。荻野部長でしたら、現在は開発棟三階の個室執務室におられますが……』
「今から行く。そこに居させろ」
エレベーターで一階へ降り、渡り廊下を抜けて開発棟へ向かう。
開発棟のエレベーターに乗り込み、三階のボタンを押した。
上昇していく表示を見ながら、黒木は考えていた。
ビギナーズポーションの販売データ。
スタンダードポーションからの相当数の乗り換え。
そして、会議前から動いていた増産計画。
一つずつなら偶然で片づけられる。
三つが重なると、そうはいかない。
チーン、と電子音が鳴った。
開発棟三階。
エレベーターのドアが開く。
静かな廊下の奥に『第一開発部長室』と書かれたドアプレートが見えた。
黒木はそこへ歩いていく。
足を止め、ドアの前に立った。
荻野は何を知っているのか。
なぜ、まだ正式に決まってもいない増産計画を昨日の時点で進めていたのか。
黒木は一度だけ息を整えた。
コンコン。




