第31話 ビギナーズポーションの誤算
「それで、黒木本部長。スタンダードポーションの販売数低下原因は何だ?」
帝国製薬本社・会議室。
革張りの椅子が並ぶ会議室に常務取締役の鋭い声が響いた。ガラス張りの壁越しに見下ろす都心の街並みは眩しいほどの晴天だったが、室内の空気は冷え切っている。
卓上に並ぶのは、白地に青のコーポレートカラーが映える『主要製品別・月間販売推移レポート』。
黒木は立ち上がり、手元のタブレットを操作して前面の大画面モニターにグラフを投影した。
「原因の特定については、複数の仮説をもとに検証を進めている。まず、営業部から出た主要競合他社による低価格攻勢の可能性——これは否定された」
黒木の淡々とした声が室内に響く。
営業担当役員が不機嫌そうに眉をひそめた。
「否定された、だと? だが現に、我が社のスタンダードポーションの販売数はここ二週間で前月比一五パーセントも落ち込んでいるんだぞ。他社が裏で大幅な値引きを行っていると考えるのが自然だろう」
「データがそれを否定している」
黒木は画面を切り替えた。各社の価格データと店頭販売数が網羅された表が表示される。
「主要競合三社の実売価格を追跡したが、大規模な値下げは確認されていない。それどころか競合各社も我が社と全く同じタイミングで同規模の販売数低下を起こしている。特定企業への顧客流出を示すデータは皆無だ」
財務担当役員が身を乗り出した。
「……競合他社も落ちている、だと? ならば価格競争ではないな」
「そうだ。業界全体の類似ポーション市場において、等しく販売数が減少している。市場全体の一時的な冷え込みと見るのが現時点では最も妥当な仮説だ」
常務が手元の紙資料へ視線を落とした。
「……時に、黒木。例の佐伯修一の新薬はどうなっている? ギルドの掲示板などで少し話題になっているようだが。我が社の落ち込みに、奴の薬が影響している可能性は?」
役員たちの視線が一斉に黒木へ集まる。
(……どこまで話すべきか)
あの異様な効果を詳しく説明すれば――。
(……余計な連中に知られる必要はない)
黒木はそう考えた。もっとも、報告そのものを歪めるつもりはなかった。
「現時点のデータを見る限り、主因とは考えにくい」
「なぜだ?」
「理由は二つある。第一に、絶対的な供給量の不足だ」
黒木はタブレットを操作し、佐伯の出品履歴データをモニターに提示した。
「佐伯の新薬は一度に三十本程度。不定期に出品されたところで数秒で完売している。月間の流通量は多く見積もったとして数百本程度だ。一日数万本が動く市場全体を動かせる規模ではない」
「ふむ……確かに、それでは焼け石に水だな」
「第二に、用途が異なる。創傷治療を目的とするスタンダードポーションの代替品として購入されているとは考えにくい」
「用途が違うからといって、影響がないとは限らんだろう」
「その可能性も確認した。しかし現時点では、佐伯の薬を購入した顧客がスタンダードポーションの購入を減らしたという明確な相関は確認できていない」
「……つまり、影響を否定することはできないが、主因と判断する根拠もない、と?」
「その通りだ」
常務はしばらく資料を見つめた。
「ならば現時点では追わなくていい。市場全体の動きを優先しろ」
「了解した」
「ただし、数字に変化が出たら再検討する。それだけは覚えておいてくれ」
「分かっている」
常務が頷く。
「よし、佐伯の件はここまでだ。本題に入ろう」
営業担当役員が座り直し、満足げな笑みを浮かべて話題を切り替えた。
「初心者市場向けの新製品、ビギナーズポーションについてだ」
スクリーンに右肩上がりの折れ線グラフが映し出された。
「発売から二週間、想定を大幅に上回るスピードで販売数が伸びてる。一本八十円という低価格が効き、登録一年未満の初心者層から絶大な支持を得ており。リピート率も極めて良好だ」
「……一方で、スタンダードポーションは落ちている」
財務担当役員がグラフを見比べながら口を挟んだ。
「ビギナーズポーションへの乗り換えが起きている可能性は?」
「当然、検討している」
営業担当役員は即答した。
「ただし、現時点の顧客分析ではビギナーズポーションの購入者は登録一年未満の初心者層が中心だ。スタンダードポーションの主要購入層とはそこまで大きく重なっていない」
「ならば問題ない、ということか」
「少なくとも、現時点ではそう判断できる。仮に一部で乗り換えが起きていたとしても、新規購入者の増加分がそれを上回っている」
財務担当役員も資料に目を落とした。
「つまり、既存商品の一時的な減少より新規市場の拡大の方が大きい、と」
「その通りだ」
営業担当役員が頷く。
「むしろ今はこの勢いを止めないことが重要だろう」
財務担当役員も頷く。
「一本あたりの粗利益は薄いが、この数量による初心者市場の制圧……我が社の規模の経済が勝利した形だな。佐伯のような個人業者が参入する余地は完全に潰れた」
海外営業担当の取締役が言葉を重ねた。
「補足ですが昨日、北米と東南アジアのギルド統括法人から大口調達の問い合わせが届きました。『この品質の応急薬をこの価格で大量供給できるメーカーは他にない』と高い評価を得ています」
「ほう! 海外市場からか!」
役員会議室の空気が一気に明るくなった。
経営企画本部が描いた筋書きは、今のところ数字の上でも申し分ない。
黒木も胸の前で腕を組み、モニターを見つめていた。
佐伯の薬がどれほど優れていようと供給量では帝国製薬に敵わない。
八十円のビギナーズポーションで初心者市場を押さえる。その狙いは、見事に当たった。
そう考えていた。
役員たちの歓談を聞き流しながら、黒木の視線は『ビギナーズポーション・地域別販売推移』の数字の列に留まった。
(……ん?)
地域ごとの販売数。
都市部と地方で、伸び方に明確な傾斜が出ている。
(……地域差が大きいな)
初心者冒険者の分布比率を考慮しても、この偏りは少し引っかかる。
黒木の頭の中で先ほど確認した『スタンダードポーション・地域別販売減少率』のデータが重なった。
(……待て)
黒木の指先が止まる。
ビギナーズポーションの伸びが大きい地域ほど、スタンダードポーションの落ち込みも大きい。
(……いや、新商品が売れれば既存商品の販売数が多少影響を受けるのは当然だ。特に驚くようなことではない)
黒木は一度、浮かんだ疑問を退けた。
大ヒット新製品が出たことで、市場の関心が一時的に移っただけ。そう考えれば説明はつく。
それでも、黒木はグラフから目を離せなかった。
「……オペレーター。画面を切り替えろ」
黒木の声が会議室の歓談を遮った。
「ビギナーズポーションとスタンダードポーションの地域別販売推移を並列で表示しろ。時期の軸を合わせて重ねるんだ」
指示通り、モニターに二つの折れ線グラフが上下に並べられる。
黒木の目が細くなった。
(……妙だな)
二つのグラフの波。
「黒木本部長? どうかしたのかね?」
常務が怪訝そうな顔で黒木を見る。
老役員も楽観的に笑った。
「新商品が売れれば旧商品の売上が少し落ちる。それだけの話だろう?」
黒木も一度はそう切り捨てかけた。
だが、二つの波形を追っているうちに、説明のつかない違和感が残った。
(……ビギナーズポーションを買っているのは本当に新規の初心者顧客なのか……?)
黒木は手元のタブレットを握り直した。
まだ、何も確定していない。ただの仮説に過ぎない。
それでも、この数字は放っておけなかった。
「顧客別の詳細な購買履歴データを抽出する」
「な……購買履歴だと? 先ほど、新規の初心者層が中心だと報告したばかりだろう」
営業担当役員の声がわずかに上擦った。
「その分析結果を確認したい」
黒木は画面から目を離さなかった。
「新規顧客として分類された購入者が実際にはどのような購買履歴を持っているのか。確認する必要がある」
「……そこまで疑うのか?」
「疑っているわけではない。確認するだけだ」
黒木は画面を見つめたまま答えた。




