第3話 初めてのお客様
「頼みましたよ」
配送受付のカウンターで俺は段ボール箱を一つ、受付の係員に手渡した。
「佐伯さん、これ初心者支援魔道配送の100円区分ですね? 送料補助の適用、確認できました。本日中にはお届け先に転移発送されますよ」
「助かるよ。壊れ物だから、扱いは丁寧にお願いできるかい」
「了解です!」
受付を後にし、初夏の陽射しが差し込む路地を歩きながら、俺は自分のごつごつとした指先を見つめた。
たった一瓶の薬草水。売上は100円。
大企業の経営層から見れば、ゴミのような取引だろう。それでも、あのコメントを残してくれた水野拓真というFランク冒険者にとっては、自分のお金を出して買ってくれた大切な命綱だ。
100円だからと手を抜く理由なんて、どこにもない。
瓶の傷を確かめ、蓋の密閉度を何度もチェックし、緩衝材で二重に包んだ。
「無事に届いてくれよ……」
俺は空を見上げ、ぽつりと呟いた。手元を離れた以上、あとはあの若者が無事に探索を終えて帰ってくるのを祈るしかなかった。
◇
「おい拓真、それ何だよ?」
ダンジョン『黒鼠の巣穴』の地上前哨基地。無数の冒険者が蠢く広場で、前衛担当の健吾が拓真の腰ポーチを指差した。
「これ? ネットで買った回復薬だよ。薬草水って書いてある」
拓真が取り出したのは、ごく普通の遮光ガラス瓶だった。中の液体は、かすかに緑色がかった透明な水のように見える。
後衛の美咲が、手元の小型魔導端末を操作しながら呆れたように眉をひそめた。
「ちょっと拓真、それいくらしたの? 大手製薬会社の『スタンダード・ポーション』なら、一瓶5,000円はするでしょ?」
「……100円」
「はぁ!?」
健吾と美咲の声が重なった。
「100円って、あんた正気!? 5,000円のポーションすら高くて買えないからって、そんな怪しいバッタ物買ってどうするのよ!」
「仕方ないだろ! 剣と皮鎧を揃えたら、俺の貯金はもう底をついたんだよ! 5,000円なんて、Fランクの初陣で用意できるわけないだろ!」
拓真は悔しそうに歯を噛みしめた。
世間のニュースでは「冒険者は稼げる」と華やかに報じられている。だが現実は、装備を揃えるだけで一苦労だ。一瓶5,000円の回復薬なんて、命を買うための高級品でしかない。買えない者は、傷を負わないことを祈ってダンジョンに入るしかないのだ。
「……まあ、何もないよりはマシか。水代わりにはなるだろ」
健吾が肩をすくめ、背中の鉄剣を削り直した。
「よし、行こうぜ。目指すは一階層のジャイアント・ラット討伐だ。無理はせず、素材を二個拾ったら撤退な」
「おう!」
三人は意気込んで、湿った冷気が吹き出してくるダンジョンの入り口へと踏み込んでいった。
◇
ダンジョン一階層は、薄暗く湿った岩肌の洞窟だった。
漂うのは、カビと腐葉土、そしてかすかな獣臭。
最初の1時間は順調だった。
迷い込んできた体長10cmほどのドブネズミ――ジャイアント・ラットを二頭、健吾の剣と拓真の槍で仕留め、尾の素材を回収した。
「なんだ、案外いけるじゃん!」
拓真が笑った直後、足元がグラリと揺れた。
「え……?」
美咲の顔から血の気が引く。
「ちょっと待って、索敵魔導に反応が……これ、一頭じゃない! 上から来る!」
ドガァン!
頭上の岩天井が崩れ落ち、無数の影が降り注いだ。
ジャイアント・ラットの群れだ。ざっと七、八頭。三人で相手をするには多すぎる。
「なっ……パニック・ラットの巣の上だったのか!? 美咲、下がれ!」
健吾が叫び、鉄剣を振るう。
だが、暗闇から飛び出した一頭が、健吾の防具の隙間――右腕の関節部分へと噛みついた。
バリッ!
「ぐああぁっ!?」
鋭い歯が皮膚を噛みちぎり、血が噴き出す。
重い金属音が響き、健吾の鉄剣が岩床に転がった。
「健吾!」
拓真が夢中で槍を突き出し、噛みついていたネズミを突き刺す。美咲が後方から小さな火弾の魔術を放ち、残りの群れをどうにか追い払ったが、周囲には不気味な足音がまだ残っていた。
「ハァ……ハァ……っ!」
健吾が岩壁に背を預け、崩れ落ちた。
右腕の袖が真っ赤に染まり、床にぽたぽたと鮮血の池ができている。顔色は土気色で、唇が激しく震えていた。
「おい、しっかりしろ健吾! 美咲、回復薬はあるか!?」
「ないわよ! 5,000円のも、安物のも……私、持ってないもん!」
美咲が声を出して泣きそうになっている。
昨日見たニュースの映像が、拓真の脳裏をよぎった。
『ダンジョン内で十分な回復薬を所持しておらず、出血により死亡——』
(嘘だろ……こんな最初の探索で、健吾が死ぬのか……?)
拓真の手が震えた。自分の腰ポーチに触れる。
入っているのは、水筒と、松明と——あの100円の小瓶。
「拓真……それ……」
健吾が薄く目を開け、拓真の腰の小瓶を見つめた。
「使う……か? その、100円の……」
「……あ」
一瞬、迷いが生じた。
100円の怪しい薬草水だ。変な不純物が入っていて、傷口が腐ったらどうする? 逆に症状が悪化したら?
だが、健吾の傷口からは刻一刻と血が失われている。迷っている時間などなかった。
「……効いてくれよ、頼むから!」
拓真は小瓶の蓋を指先で捻り開けた。
◇
カチャ、と小さな音が響く。
蓋を開けた瞬間、周囲に充満していた血生臭い匂いとカビの臭気がすっと吹き飛んだ。
立ち上ったのは雨上がりの深い森のような、澄み切った清涼な香りだった。
「え……何この匂い……?」
美咲が涙を拭い、目を丸くする。
瓶の中の液体は薄暗い洞窟の中でまるで自ら発光しているかのように微かな翡翠色の光を放っていた。雑味も、濁りも一切ない。
「健吾、口を開けろ! 飲むんだ!」
「う、うん……」
拓真は健吾の頭を抱え、小瓶の液体を半分ほど口に含ませた。そして残りの半分を右腕の生々しい傷口へと振りかけた。
「痛っ……あ?」
健吾が悲鳴を上げようとして、ぴたりと動きを止めた。
傷口に液体が触れた瞬間、ジュ……という小さな音がした。
染みるような激痛はなく、まるで氷で冷やしながら上質な絹で包み込まれるような心地よさが右腕を駆け抜けた。
「な……んだ、これ……!?」
二人とも、目の前の腕から視線を外せなかった。
ズキズキと血を噴き出していた深手。赤黒い肉の隙間が見る間に塞がり、薄桃色の皮膚が広がっていく。
わずか数秒のうちに出血が完全に止まり、皮膚が滑らかに塞がっていく。
「え……? 傷が……消えてく……?」
美咲が口を大きく開けたまま固まった。
口から薬を飲み込んだ健吾もまた、呆然と自分の右手を見つめていた。
顔に朱色が戻り、荒かった息遣いが一瞬で整っていく。それどころか、重かった足が嘘のように軽い。握った拳にも力が戻っていた。
「おいおいおい……マジかよ……」
健吾がゆっくりと指を握り直し、転がっていた鉄剣を軽々と拾い上げた。
「腕が……動く。痛みが全くない……! それどころか、体力が完全に回復してる……!?」
「そんなはずないでしょ!?」
美咲が叫んだ。
「初級の回復薬って、擦り傷を塞ぐのに10分以上かかるのよ!? なんでこんな深手が数秒で治るの!? それに、体力まで全回復するなんて……それって数万円以上するハイポーションクラスの性能じゃないの!?」
「でも、これ……本当にあの100円のやつだぞ……」
拓真は手に持った空の小瓶を見つめた。
透明なガラス瓶の表面には、素朴なシールのラベルが一枚貼られているだけだ。
『薬草水(100円) / 佐伯錬金工房』
「100円……? これが……? 嘘だろ……」
拓真の全身に鳥肌が立った。
これ、とんでもない薬なんじゃ……?
5,000円の薬が買えなくて絶望していた自分たちを救ったのは、怪しいバッタ物なんかじゃなかった。
「拓真……」
健吾が真剣な目で拓真の肩を掴んだ。
「これを作った佐伯錬金工房って……何なんだ?」
「わ、分からない……ネットで偶然見つけて……ただ初心者応援って書いてあって……」
拓真の指先が震えた。
助かった。それだけは分かる。けれど、あの薬を作った人間のことは何ひとつ分からない。
「助かった……俺たち、生きて帰れる……!」
健吾が力強く微笑み、拓真の手を握りしめた。
「拓真、帰ったらすぐにこのショップにお礼を書こう。レビュー欄でも何でもいい。こんな凄い薬を100円で売ってくれた人に感謝を伝えないと罰が当たる!」
「ああ……! ああ、絶対に書くよ!」
拓真は空の小瓶を胸に強く抱きしめた。
ダンジョンの暗闇の中、三人はもう一度、空になった小瓶を見た。そこに刻まれた『佐伯錬金工房』の文字を。
◇
その日の夜。
佐伯錬金工房の狭い事務所。
俺は作業台の前に座り、いつものように中古のノートパソコンを開いていた。
今日も一日、黙々と100本の薬草水を作り終えたところだ。手のひらはかすかに痺れていたが充実感があった。
「さて……今日のアクセスはどうかな」
画面を更新する。
【アクセス数】:12
【お気に入り登録】:1
【注文数】:1
「お、アクセスがちょっと増えてるな」
まあ、十数人に見てもらえたなら上出来だ。
そう思いながら管理画面の『レビュー・お問合せ』のタブを開いた瞬間、俺の手が止まった。
一通の新着メッセージが届いていた。
差出人は——昨日の夜、初めて注文をくれた水野拓真だった。
『佐伯錬金工房様
本日、初めてのダンジョンで仲間が魔物に襲われ、腕に深手を負いました。
血が止まらず、もうダメだと思った時、佐伯様の薬草水を使わせていただきました。
一口飲ませて傷口にかけた瞬間、信じられないことに血が止まり、数秒で傷が綺麗に塞がりました。仲間はすっかり元通りになり、無事に地上へ帰ってくることができました。
この薬がなかったら、僕たちは今日、仲間を失っていたかもしれません。
こんなに素晴らしい薬を、たったの100円で僕たちのような初心者に届けてくださり、本当に、本当にありがとうございました。
これからも絶対に買い続けます。佐伯様は、僕たちの命の恩人です』
「……え?」
文章を何度も読み返す。
血が止まり、数秒で傷が塞がった? 仲間はすっかり元通り? 命の恩人?
「いやいやいや……」
俺は困惑して頭を掻いた。
「初級回復草を普通に精錬したただの薬草水だぞ……? 数秒で深手が治るわけないだろ。きっと若者特有の大げさな表現か、パニックになって勘違いしたんだな」
多分、かすり傷程度だったのが血を見て酷い深手だとパニックになり、薬を塗って冷やしたことで落ち着いた……そんなところだろうか。初心者はよくパニックを起こすものだ。
それでも無事に、仲間を失わずに生きて地上へ戻ってきてくれた。
「……よかった」
俺は胸を撫で下ろし画面に向かって微笑んだ。
自分が作った薬が見知らぬ誰かの役に立ち、無事に家へ帰る手助けができた。
製薬会社の会議室で「利益にならない」と切り捨てられ続けた俺の仕事が、確かに一つの命を支えたのだ。
「よし……明日も丁寧に作ろう」




