第2話 百円の薬草水
退職手続を終え、社屋を出てからの行動は早かった。
45歳にもなって勢いで生きてきたわけじゃない。15年間、大手製薬会社の第一線で薬草加工と精錬を担当してきた。現場の立ち上げや設備の搬入、原材料の調達ルート……それらの実務は身体に染みついている。
会社という巨大な看板は失ったが、培ってきた経験まで奪われたわけじゃない。
翌朝、俺は通帳と認印を鞄に押し込み、東京都内の東端――ダンジョン『黒鼠の巣穴』から徒歩15分ほどの場所にある古い商店街へ向かった。
「ここかい? 元は豆腐屋だった場所だ。狭いがね」
小柄な老大家に案内されたのは、12坪ほどの古い物件だった。
コンクリートの床は削れていたが、壁際の水道口径と電源の容量を確認し、俺はすぐに頷いた。
「いいですね。作業台と小型の精錬窯を入れるには十分です。ここに決めます」
「おいおい、即決かい? 助かるよ」
敷金・礼金と家賃2ヶ月分で35万円。
通帳の残高は約400万円。最初から豪勢な工房を作る必要なんてどこにもない。形から入って資金を溶かすのが一番愚かだ。
その足で秋葉原の魔導ジャンク街へ飛び、ホコリを被った鋳鉄製の小型精錬窯と耐熱ガラスの蒸留器を中古で買い揃えた。
「おいおい親父さん、そんな骨董品の手動窯で薬を作る気かい? 今どき専門学校でも使わねえぞ」
店主は呆れていたが、炉心の魔法陣に摩耗はなく、ギヤも生きている。手動で火力を調整できるなら、これほど扱いやすい道具はない。
ホームセンターで作業台や梱包資材を買い集め、費やした設備投資はわずか25万円ほどで済んだ。
翌朝には、ダンジョン前の素材市場へと向かった。
熱気と汗、血生臭い素材臭が入り混じる市場の最奥、安売り専門の薬草卸問屋の暖簾をくぐった。
「初級回復草はあるかい?」
「そこらの竹籠の中のだよ。束で100円だ。だが昨日の売れ残りで葉が枯れかけてるぞ」
店番の老人が吐き捨てた竹籠には、ひょろひょろとした緑の草が突っ込まれていた。
手に取ってみる。しなびてはいるが、茎の根元の繊維は生きている。表面の余計な水分が適度に抜けていて、むしろ扱いやすいくらいだ。
「これ、箱ごと全部貰おう。あと……そっちの棚の下にある茎の屑もだ」
俺が指さしたのは、部屋の隅に捨てられていた木箱だった。
「ああん? そいつは葉っぱを切り落とした後の廃棄物だぞ。ゴミだ」
「ゴミじゃありませんよ。時間をかけてじっくり煮出せば、まだまだ十分使えますから」
「……変わった客だなあ」
初級回復草10束と、捨て値の茎が入った木箱を3箱。
買い込んでも代金はわずか1300円だった。
◇
ガラガラ、と工房のシャッターを閉める。
静まり返った室内には、青くささと土の匂いが充満していた。
「よし……始めるか」
水道水で薬草を一本ずつ丁寧に洗い、ナイフで傷んだ部分を削ぎ落とす。
茎の繊維を斜めに刻む感触を確かめながら、トントンとリズム良く包丁を動かす。15年間、毎日やってきた作業だ。手が勝手に動く。
刻んだ薬草と水を中古の精錬窯へ投入し、手動ダイヤルに少量の魔力を込めた。
窯の底の魔法陣が、薄ぼんやりと赤く点灯する。
(最初は強火……一気に温度を上げてから、弱火に落とす)
蓋についた温度計の目盛りを見つつ、立ち上る蒸気の匂いに意識を集中させる。
生草特有のエグみが消え、かすかな甘みが混じり始めた瞬間に、ダイヤルを少しだけ左へ戻した。
「よし……あとは手動でアクを掬い取るだけだ」
浮き上がってきた濁りを、微細目のフィルターで一網一網、静かに掬い取っていく。特別な技術なんて要らない。根気よく、不純物を残さないように丁寧にすくい続けるだけだ。
2時間後。
蒸留器から冷たいガラス瓶へ、液体を一滴ずつ落としていく。
ポタリ。ポタリ。
瓶の底に溜まった液体は、微かに緑色の光を帯びていた。濁りは一切ない。澄み切った薄緑色だ。
100本分の小瓶が作業台の上に並んだ。
一本手に取り、一口だけ舌の上に落としてみる。
さらりとした水のような喉越し。苦味もエグみもなく、すっと喉を滑り落ちると、お腹の底からじんわりと温かい感覚が広がった。
「うん……いつも通りだな」
特別な道具を使わなくても、基本さえ間違えなければ薬はちゃんと応えてくれる。これなら十分に商品として出せる。
◇
事務所スペースのパイプ椅子に腰を下ろし、パソコンを開いた。
【商品名】:薬草水
【価格】:100円
【商品説明】:
初心者応援用の回復薬です。
基本の手順を守り、丁寧に精錬しました。
ダンジョン探索時の水分補給や、ちょっとした傷の処置にお使いください。
無理な探索は避け、怪我をしたらすぐに引き返してくださいね。
価格の100円について、電卓を弾く。
薬草と小瓶、光熱費を合わせた製造原価は1本あたり約30円。
初心者冒険者向けの商品ならギルドの配送補助制度が使えるため、出品者負担の送料も15円程度で済む。
「原価30円+送料15円=45円。100円で売れば、ちゃんと1本55円残るな」
大儲けはできないが、赤字にもならない。駆け出しの冒険者がポケットの小銭で買える値段としては、これが一番いい。
画面の『出品』ボタンを押すと、ネットの海に俺の小さな商品が放たれた。
それから、完成した100本の小瓶をプチプチで包み、一つずつダンボール箱へ収めていった。
ラベルシールに、黒の油性ペンで手書きする。
『薬草水(100円)』
箱のフタを閉じながら、ふと胸の中に小さな不安が持ち上がってきた。
無名の個人工房が作った、たった100円の素性も知れない薬草水。
世の中には大手が作った一瓶5,000円の市販薬が溢れている。こんな安物、怪しまれて見向きもされないかもしれない。
「……ハハ、弱気になってどうする」
自嘲気味に呟き、最後の100本目の箱にテープを貼った。
やるべきことはやった。あとは届くのを待つだけだ。
◇
夜の9時を回った。
パイプ椅子に深く腰掛け、熱い緑茶をすすりながらパソコンの画面を眺める。
【アクセス数】:3
【お気に入り登録】:0
【注文数】:0
「まあ……初日から売れるわけないよな」
苦笑いを浮かべ、お茶を飲み干して立ち上がろうとした、その時だった。
――ピコン。
静まり返った工房内に、電子音が小さく響いた。
「……ん?」
画面の右下に、オレンジ色の通知ポップアップが浮かび上がっている。
管理画面を更新すると、くるくるとマークが回り、画面が切り替わった。
【注文管理画面】
・注文日時:2026年8月17日 23:31
・購入者:水野拓真 様(Fランク冒険者)
・商品名:【薬草水】
・数量:1本
・合計支払い金額:100円
・購入者様コメント:「明日、初めてダンジョンに行きます。お金があまりなくて1本しか買えませんが、よろしくお願いします」
「………………………………え?」
画面の文字を何度も見返した。
眼鏡を外し、目を擦ってからもう一度見る。
消えない。確かに、1本の注文が入っている。
「……売れた」
ポツリと声が漏れた。
たったの100円。
15年前、入社したばかりの頃に数百万円の大型契約を取った時だって、こんな気持ちにはならなかった。
いま目の前にあるのは、自分の手で工房を借り、自分の手で薬草を選び、自分の手で火を焚いて作った薬に、見知らぬ誰かが払ってくれた価値ある100円だ。
「……買ってもらえたのか」
胸の奥がじんわりと熱くなった。
コメント欄の言葉を指先でなぞる。
Fランクの駆け出し冒険者。明日が初陣なのか。
財布の底を叩いて、俺の100円の薬を選んでくれたんだ。
「待ってろよ」
俺はパイプ椅子から立ち上がり、棚から丁寧に梱包した『1本目の箱』を取り出した。
「すぐに送ってやるからな。……絶対、無事に帰ってくるんだぞ」
誰もいない夜の工房で、俺は少しだけ嬉しそうに微笑んだ。




