第29話 黒木、試作品を飲む
深夜二時。帝国製薬本社・経営企画本部。
「……またか」
黒木はこめかみを指で押さえ、充血した目を閉じた。
パソコン画面には、新しく更新された市場データのグラフと佐伯のショップページが並んでいる。
デスクの隅には空になったエナジードリンクの缶が三本。
ここ数日、まともな睡眠を取っていない。目の下には濃いクマが張りつき、緩めたネクタイの結び目も胸元で歪んでいた。
それでも黒木は画面から目を離さない。
市場で起きている異常の正体を突き止めるまで、眠るつもりはなかった。
コンコン、と控えめなノック音が室内に響いた。
「本部長。例の……三百円の試作品が届きました」
分析担当の社員が入ってきた。
その手に載っているのは無地のダンボール箱から取り出されたばかりの小さなガラス瓶だった。
佐伯が出品した【深層探索用・試作薬】。
「ご苦労。……これが佐伯の新商品か」
黒木は小瓶を受け取った。
無骨なガラスの質感。
コルクの周囲に固められた、不揃いな蝋。
デザイン性など、ほとんどない。
「すぐに分析に回せ。回復性能、成分構成……すべてだ」
「承知しました」
社員が瓶を受け取り、部屋を出ていく。
黒木は閉じた扉をしばらく眺めていた。
「……三百円、か」
小さく呟き、再びモニターへ向き直った。
◇
一時間後。分析室。
立ち並ぶ高精度分析装置が低い駆動音を響かせている。
黒木は腕を組み、モニターに映し出されたデータを追っていた。
「分析結果が出ました」
分析担当がタブレットを操作する。
「まず、創傷への回復性能ですが……佐伯が出していた100円の薬草水と比べても、回復効率はかなり落ちています」
「回復性能だけなら、ただの粗悪品か」
「そう判断するところですが……ひとつ、妙な数値が出ています」
「妙な数値?」
担当者が画面を切り替えた。
「疲労軽減に関する反応です。比較対象になる既存薬品がありません」
グラフの一角だけが、他とは明らかに違う動きを示している。
傷を塞ぐ反応は低い。
ところが、筋肉の疲労や魔力消費に伴う身体への負荷を抑える反応だけが、異様な数値を示していた。
「回復薬としての性能は低い。なのに、疲労に関する数値だけが高い……?」
「はい。従来の回復薬とは作用する場所そのものが違うようです」
黒木は画面に顔を近づけた。
「……エナジードリンクの類ではないな」
「はい。神経を刺激して疲労感を誤魔化すタイプではありません」
黒木の視線がデスクの端に置かれた空き缶へ移る。
帝国製薬の疲労回復用ドリンクは強い刺激によって眠気や疲労感を一時的に押さえ込む。
効いている間は動ける。
その代わり、効果が切れれば反動が来る。
「本部長……いかがいたしますか?」
黒木は小瓶を見た。
「……私が飲む」
「本部長!?」
「毒性反応はないんだろう?」
「現時点では確認されていません。ただ、人体での安全性についてはまだ臨床が――」
「なら問題ない」
黒木は小瓶を手に取った。
「今の私なら、効果が出ればすぐに分かる」
連日の仕事で身体はとうに限界を超えている。
データを眺めるより、自分で確かめた方が早い。
ふわりと、青くささの残る薬草の香りが立ち上る。
「……薬草臭いな」
小瓶を傾ける。
ゴクリ。
仄かな甘みとかすかな苦味。
喉を通り過ぎると胸元に軽い清涼感が残った。
「……ふん」
黒木は小瓶を机に置いた。
「変化なし、か」
やはり、気休め程度の代物だったか。
そう判断しかけた、その三十秒後。
「……ん?」
黒木が目を細めた。
最初に変わったのは目だった。
さっきまでパソコン画面の光が鬱陶しかった。
同じ資料を三度読み返しても頭に入らなかった。
それが今は違う。
目の奥にこびりついていた重さが、いつの間にか消えている。
首を回す。
「……?」
固まっていた首筋が、驚くほど軽い。
肩を動かしてみる。
痛みがない。
黒木は眉をひそめた。
「これは……」
エナジードリンクを飲んだ時のような、高揚感はない。
心拍も変わらない。
ただ、身体の中に溜まっていた重さだけが抜けていた。
黒木は椅子に座り直し、マウスを握った。
さっきまで数字の羅列にしか見えなかった市場データが、ひとつひとつ頭に入ってくる。
「……ここか」
見落としていた異常値に気づく。
指がキーボードを叩いた。
ひとつ処理する。
次の資料へ移る。
さらに次へ。
頭の中を覆っていた霧が一枚ずつ剥がれていく。
(違う……)
黒木の指が止まらない。
(疲労を誤魔化しているんじゃない)
(身体に溜まっていた疲労そのものが、軽くなっている……!)
数時間かかると見積もっていた資料の整理が、気づけば1時間も経たずに終わっていた。
黒木は画面から目を離し、椅子の背にもたれた。
「……なんだ、これは」
デスクの上には空になった小瓶。
その横には先ほどまで頼っていたエナジードリンクの空き缶。
黒木は二つを見比べた。
「……認めたくはないな」
それでも事実は変わらない。
この薬は使える。
しかも、自分のように疲労を抱えた人間ほど、その価値を実感する。
黒木はショップページへ視線を戻した。
「……三百円」
「正気か……? これを三百円で売るというのか、佐伯……」
黒木は腕を組んだ。
そして、画面の横に表示された数字を見る。
『販売数量:試作品30本』
『完売』
「……フッ」
口元がわずかに緩んだ。
「三十本、か」
性能は脅威だ。
しかし、供給量が少なすぎる。
個人が手作業で作っている以上、いきなり大量生産できるとは考えにくい。
三十本程度なら、市場への影響は限定的だ。
「性能は脅威だが……現時点では、我が社のシェアを脅かすほどじゃない」
黒木はそう結論づけた。
企業人として考えればそれで十分だった。
視線が、再びショップページへ戻る。
【販売数量:30本】
【完売】
黒木の指が止まった。
(……次はいつ出る?)
浮かんだ考えに、自分で眉をひそめる。
だが。
(もう一本……)
黒木は画面を睨んだ。
「……」
椅子から立ち上がる。
空瓶をゴミ箱へ捨てようとした手が止まった。
黒木は瓶を見下ろした。
「……分析用だ」
誰に聞かせるでもなく呟く。
黒木は空瓶をデスクの引き出しへ入れた。
カチャン。
引き出しが閉じる。
その奥にはエナジードリンクの空き缶とは違う一本の瓶が収まった。
そして黒木は無意識のうちにショップページをもう一度開いていた。




