第25話 その市場に、価値があると?
「――で、佐伯修一の件はどうなった?」
営業担当役員の問いに会議室の末席に立つ黒木は手元の資料をめくり、淡々と答えた。
「連れてこられなかった」
役員たちの間に、ざわめきが起こった。
肘掛けに置かれた手が止まり、何人かが顔を見合わせる。
「連れてこられなかった、とはどういうことだ?」
財務担当役員が身を乗り出す。
「前回の会議で君が提出した稟議は通したはずだぞ。年俸六千万円、五年契約。最新設備を備えた特命研究室の設置に、開発商品のブランド名に本人の名を冠することまで認めた。叩き上げの一職人に出す条件としては、我が社の歴史上でも破格中の破格だ。それでも首を振ったというのか?」
「そうだ」
黒木の声に揺らぎはない。
ただ、背中に隠した右手だけが強く握り締められていた。
爪が掌に食い込む。
郊外の古びた工房で交わした会話が頭から離れない。
大企業の看板。提示した破格の年俸。約束した研究環境と名誉。こちらが切れる札をすべて並べた。
それなのに佐伯修一は困ったように笑って言ったのだ。
『俺、別に有名になりたいわけじゃないんです』
『この薬を使った冒険者さんが、怪我を治して帰ってきてくれる。それで十分なんです』
駆け引きではなかった。
強がりでもない。
本当にそれだけだった。
黒木はタブレットを操作し、会議室のスクリーンへ佐伯の販売記録を映した。
「佐伯修一という男は一般的な金銭的インセンティブでは動かん。地位や名誉を提示しても同じだ」
「物欲がない、と?」
老役員の一人が鼻で笑う。
「そんな人間がいるものか。単に我々を値踏みして、条件を吊り上げようとしているだけではないのかね?」
「いや」
黒木は即座に否定した。
「そうではない」
スクリーンには薬草水を購入した冒険者から寄せられたレビューが並んでいる。
「佐伯にとって重要なのは、通貨でも役職でもない。自分の作った薬を必要としている人間に届け、その結果を直接受け取ることだ」
黒木は画面の一つを指先で示した。
「『助かりました』『これで帰れました』――そういった言葉だ」
「感謝、か」
営業担当役員が呆れたように息を吐く。
「そんなもので腹が膨れるのか。……だが黒木、相手が本当にそういう男なら、交渉で引き入れるのは難しいだろう。手ぶらで戻ってきた君は、これからどうする?」
黒木は一拍も置かなかった。
「獲得できないのであれば、潰す」
会議室から声が消えた。
黒木はスクリーンを見上げる。
「佐伯が我が社の提示を拒み、個人工房に留まり続けている理由は明白だ。あの男には、そこで薬を売り、初心者冒険者に必要とされる環境がある」
黒木がリモコンを操作すると、スクリーンの表示が切り替わった。
『初心者向け下級回復薬・大量供給計画――プロジェクト・ビギナーズ』
「ならば、その環境そのものを我が社が奪えばいい」
◇
「……待て、黒木」
資料が表示された途端、財務担当役員が声を上げた。
眼鏡を外し、モニターを睨みつける。
「初心者市場だと? 正気か?」
「何か問題でも?」
「問題しかない!」
財務担当役員は手にしたペンでテーブルを叩いた。
「忘れたのか? 初心者向け低価格帯ポーションは、我が社が三年前に縮小を決めた市場だ。利益率が低いうえ、販売コストも高い!」
声が次第に大きくなる。
「駆け出し冒険者は客単価が低い。一人あたりの購入量も少ない。そのくせ、薬の使い方だの効果だの、細かい問い合わせが多い。カスタマーサポートの負担ばかり増えるぞ! 我が社が力を入れるべきなのは、中級・上級冒険者や大型ギルドとの契約だ。わざわざ利益の薄い市場へ戻る理由がどこにある!」
「戻るのではない」
黒木は淡々と答えた。
「取りに行くんだ」
「……何?」
黒木はリモコンを操作し、複数のグラフをスクリーンに並べた。
「安価な回復薬を必要としている冒険者は以前から存在していた。ただ、我々が商品として成立しないと判断して切り捨てたため、表に出てこなかっただけだ」
黒木は販売数の急増した箇所を指す。
「佐伯は一瓶百円という価格を設定した。すると、購入者が現れた。需要がなかったのではない。買える商品がなかったのだ」
会議室の空気が止まる。
「佐伯の一日三百本という生産量ではこの需要を満たせない。ならば、我々が供給すればいい。佐伯が見つけた客を我が社の商品へ流す。それだけのことだ」
営業担当役員が腕を組む。
「つまり、佐伯が市場を作り、我々がそこへ商品を投入する、と?」
「その通りだ」
黒木の口元がわずかに上がった。
「市場にある需要へ、企業として応えるだけだ」
◇
「……なるほど」
常務取締役が顎に手を当てた。
「筋は通っている。だが、肝心の価格はどうする? 佐伯は百円で売っている。こちらが三百円、四百円では話にならんぞ」
「八十円で投入する」
黒木が答えた途端、会議室がざわついた。
「八十円!?」
財務担当役員が声を裏返す。
「馬鹿な! 三年前に販売を打ち切った低価格帯ポーションですら一本三百五十円だったんだぞ! それより遥かに安い八十円では、原価割れに決まっている!」
「原価割れはしない」
黒木はスクリーンへ新しい資料を表示した。
【『帝国製薬ビギナーズポーション』原価試算】
「……五円」
財務担当役員が呆れた顔をする。
「一瓶売って、たった五円の粗利だぞ? 販売管理費やサポートコストを引けば手元に何も残らん! そんなギリギリの数字で全国展開など、大企業のやることではない!」
「五円の利益そのものを目当てにするわけではない」
黒木は役員たちを見渡した。
「この商品は単体で儲けるためのものではない。我が社の顧客獲得フロントエンドだ」
役員たちの表情が変わる。
「年間九千万円程度の粗利など、我が社にとっては取るに足らん数字だ。だが考えていただきたい。Fランクの駆け出し冒険者が、最初に手にするのが我が社の八十円ポーションだとしたらどうか?」
黒木は指先でスライドを切り替えた。
「その冒険者が成長し、Dランクになれば中級ポーションを買う。Cランクになれば高級ポーションを買う。さらにはクランや大型ギルドの指定購入へと繋がる。つまり、初心者時代に帝国製薬という信頼を植え付けることで、将来の優良顧客を他社に先駆けて完全に囲い込むのだ」
会議室に納得の溜息が漏れ始めた。
「佐伯は一日三百本しか作れん。我が社は日産五万本を全国へ流す。新規の設備投資はゼロ。眠っている第三工場の夜間ラインと配送網の隙間を使うだけだ。もちろん、五円という薄い粗利には販売管理費の変動リスクがある」
黒木は淡々と続けた。
「だが、我々には撤退できる余地がある。想定した顧客獲得効果が得られなければ、ラインを止めればいい。固定費を新たに抱えるわけではない」
「つまり、損失を限定した市場テストというわけか」
「その通りだ」
財務担当役員が言葉を失い、深く頷いた。
「なるほど……単体の利益ではなく、顧客生涯価値を取るわけか」
そこで研究開発責任者が控えめに手を挙げた。
「黒木本部長。品質はどうするおつもりですか?」
「品質?」
「佐伯の薬草水を購入して分析した研究員の報告書を読みましたか? あの薬草水は成分の精錬度が異常に高く、不純物はほぼゼロ。魔力定着率は九十九パーセントを超えています。我が社の自動プラントで作る八十円のポーションでは、あの回復性能には到底届きません」
「届かなくていい」
黒木は即答した。
「……何?」
「佐伯と同じものを作る必要など、最初からどこにもない」
「では何を売る?」
常務取締役の問いに、黒木は口元をわずかに歪めた。
「薬の性能だけで勝負する必要もない」
黒木は次のページを表示する。
そこには大きく一つの言葉が記されていた。
【安心】
「我が社が売るのは八十円の回復薬だ。全国どこでも買える。大手製薬会社が品質管理している。ギルドも薬局も取り扱う」
黒木は指先で『帝国製薬』の社名を叩いた。
「一瓶百円の個人工房製品と、我が社の製品。初心者冒険者が店頭で二つを見比べたとき、どちらを選ぶと思う?」
会議室の誰も答えなかった。
黒木は役員たちを見渡す。
「性能で負けてもいい。資本力、供給量、価格。この三つで市場を埋め尽くせばいい。買い手がいなくなれば、佐伯も現実を見る。自分が何を必要としていたのか、そこで初めて分かるだろう」
◇
一方その頃――。
都外れの小さな借家にて。
俺は古びた錬金釜から立ち上る澄んだ蒸気の香りを胸いっぱいに吸い込んでいた。
「カチャ」
軽い音を立てて、丁寧に煮出した薬草水をガラス瓶へと注ぎ込んでいく。
ふと手を止め、スマートフォンで業界ニュースの速報をチェックする。
目が画面の見出しで止まった。
「うわあ……すごいなあ!」
画面には大きな見出しが躍っていた。
『帝国製薬、初心者向け低価格ポーション『ビギナーズポーション』を80円で全国発売! 日産5万本体制へ』
「一瓶、八十円……! しかも全国のギルド窓口で毎日五万本も買えるなんて。すごいなあ、やっぱり大手の製薬会社さんはスケールが違うよ」
俺は感心したように画面を眺めた。
「俺の手作業だと、丁寧に下処理をして温度管理をしても、一日三百本を作るのが限界だからなあ。お金のない初心者冒険者さんたちに薬が行き渡らないのがずっと心苦しかったんだ。これで、薬が買えずに無理をして命を落とす若い子たちが減るぞ。さすが帝国製薬さんだ!」
頬が緩む。
ネット通販の注文画面を開いた。
相変わらず出品した瞬間に即完売する状況が続いているが、大手の参入によって、これからは少し落ち着くかもしれない。
「大手が安くて良いものを大量に作ってくれるなら、俺の薬草水の需要も少し減るかな。……ううん、でもそれはすごく良いことだ」
俺は釜の前に戻り、青くささの残る薬草の束を手に取った。
指先で葉の状態を確かめる。
「初心者の皆さんの安全が確保されるなら、俺は俺で……もう少し手間暇をかけた、新しい薬の試作に挑戦してみてもいいかもしれないな。例えば、深い階層に行く人向けの、少し濃い目のやつとか……」




