第24話 なら、その場所をなくせばいい
午前十時。
帝国製薬本社ビルの最上階にある役員会議室では、各部門の役員たちが黒木の説明に耳を傾けていた。
黒木は手元の資料をめくり、壁面のスクリーンに映し出されたデータを指す。
「――以上の結果から新ライン、ハイポーションの成功には佐伯修一の手作業技術とその判断工程の再現が不可欠だ」
スクリーンには佐伯の薬草水と帝国製薬の上級ポーションを比較した分析結果が並んでいる。
不純物の少なさ。
魔力定着率。
そして原料に対する薬効成分の抽出量。
どの項目を見ても佐伯の薬草水が既存製品を上回っていた。
向かいに座る老役員が眼鏡を押し上げる。
「黒木本部長。佐伯氏の技術が優秀なのは分かった。だが一度目の復職打診は断られたのだろう?」
「そうだ」
黒木は即答した。
「しかし、二千四百万円では足りなかっただけだ」
「足りなかった?」
「彼の現在の市場価値に対して、提示額が低すぎたということだ。優秀な人間ほど、自分の価値に見合わない条件では動かない」
老役員は腕を組む。
「では、次はどうする?」
黒木は資料を閉じた。
「条件を改める」
その声には迷いがなかった。
「年俸六千万円。契約期間は五年。さらに、新ブランドハイポーションのシリーズに彼の名前を冠する。『サエキ・モデル』として展開する」
会議室のあちこちから、ざわめきが起こった。
「六千万円だと……?」
「一研究員出身の人間に、そこまで出すのか?」
「個人名を商品名に使うなど、前例がないぞ」
「前例がないなら、今回が最初になる」
黒木は役員たちを見渡した。
「佐伯は職人だ。技術への自負もある。ならば、それに見合った待遇と名誉を与えればいい」
黒木は机の上に手を置いた。
「人間には必ず欲望がある。それをこちらが見つければ動かせる。金だけで足りなければ地位を与える。地位でも足りなければ名前を残す。こちらが条件を上げれば最後には納得する」
その言葉に反対意見は出なかった。
◇
翌日、午後二時。
古い引き戸を開けると黒木が立っていた。
昨日と同じ仕立てのいいスーツ姿。
その後ろには高橋主任と黒い革の書類鞄を持った弁護士が控えている。
俺は作業台から顔を上げた。
「……黒木本部長。また来られたんですか」
昨日、断ったばかりだ。
なのにまた来た。
そのことが不思議だった。
「昨日は失礼した、佐伯君」
黒木は昨日とは違い、穏やかな笑みを浮かべていた。
俺が勧めるより先に畳へ上がると、弁護士に目配せする。
弁護士が鞄から契約書を取り出し、俺の前に広げた。
「昨日の条件では、君の価値を正しく評価できていなかった。我が社の落ち度だ」
黒木が契約書を指差す。
「年俸六千万円。契約期間五年。最新設備を備えた特命研究室を用意する。原材料も君が必要とするものを会社が調達する」
六千万円。
さすがに、その数字には驚いた。
「……六千万円、ですか」
「そうだ」
黒木は満足そうに頷く。
「君の技術を考えれば、決して高すぎる金額ではない。帝国製薬として、正当な評価をしたつもりだ」
「ありがとうございます」
俺は素直に頭を下げた。
六千万円なんて、俺には縁のない金額だ。
それだけの評価をしてくれたことは、職人としてありがたい。
だからこそ、きちんと伝えておこうと思った。
「でも……戻るつもりはありません」
黒木の笑顔が止まった。
「……何?」
「お断りします」
「佐伯君。君は、この数字の意味を理解しているのか?」
黒木の声が低くなる。
「六千万円だぞ。君が今の工房で薬を作り続けても、そう簡単に届く額ではない。研究設備も、人員も予算も用意する。何一つ不自由はさせない」
「はい。分かっています」
「なら、なぜ断る?」
黒木は契約書をめくった。
「金だけではない。君の名前も残す」
そこには、新ブランドについての企画書が挟まっていた。
「『サエキ・モデル』。帝国製薬の新たな看板商品だ。業界誌への掲載、学会での発表、将来的には技術最高顧問の地位も用意する」
黒木の声に力が入る。
「君の技術を帝国製薬の看板を使って世間に認めさせる。これ以上の待遇はない」
俺は企画書を眺めた。
「……あの、黒木本部長」
「何だ?」
「俺、別に有名になりたいわけじゃないんです」
黒木の眉が動いた。
「……何?」
「名前を商品につけてもらうのも、学会で発表してもらうのも、ありがたい話ではあるんですけど」
俺は作業場へ目を向けた。
「俺が欲しいのはそこじゃないんですよ」
小さな精錬窯の上で、仕込み中の薬草水が静かに湯気を上げている。
「この薬を使った冒険者さんが、怪我を治して帰ってきてくれる。それで十分なんです」
黒木は黙った。
「名誉もいらない、看板もいらない。では君は何を求めている?」
「何を……と言われても」
俺は少し考えた。
「生活できるだけのお金は必要です。家賃もありますし、飯も食べなきゃいけません。釜や道具も、いいものがあれば助かります」
そこで言葉を切る。
「でも、それは薬を作るためのものです」
俺は黒木を見る。
「目的じゃありません」
黒木の表情が固まった。
「今の工房で、自分が納得できる薬を作る。それを、必要としている人が買える値段で届ける。買った人が無事に帰ってきてくれる」
俺は小さく笑った。
「俺はそれができれば十分です」
「……十分?」
黒木の声がかすれた。
「六千万円を捨ててまで、ここで百円の薬を作るというのか?」
「捨てる?」
俺は首を傾げた。
「違いますよ」
黒木が顔を上げる。
「俺はこっちを選んでいるだけです」
黒木は何も言わなかった。
しばらくして、膝に置いた手をゆっくり握り込む。
「……理解できん」
その声には、昨日までの怒りとは違うものが混じっていた。
「金でもない。地位でもない。名誉でもない……。そんなもので動かない人間が、本当にいるのか」
「いますよ」
俺が答えると、黒木はますます言葉を失った。
やがて立ち上がる。
「行くぞ」
「本部長?」
「帰る」
高橋と弁護士が慌てて立ち上がった。
黒木は最後まで俺を見たまま、玄関へ向かった。
◇
夕方。
帝国製薬本社。
役員会議室の窓から、赤く染まった街並みが見える。
黒木は一人で立っていた。
高橋が恐る恐る声をかける。
「……本部長。佐伯さんへの提案について、役員会にはどう報告を……」
黒木は答えない。
頭の中にはさっきの言葉が残っていた。
『俺はこっちを選んでいるだけです』
黒木は拳を握った。
(あり得ん)
六千万円。
それでも動かなかった。
役職も、名誉も、商品への命名権も提示した。
それでも断った。
(人間は利益で動く。金が駄目なら地位だ。地位が駄目なら名誉だ。それでも動かないというなら……)
黒木は振り返った。
「高橋」
「はい」
「あの男は本当に初心者冒険者のためだけに六千万円を断ったと思うか?」
高橋は少し黙った。
工房で見た佐伯の顔が浮かぶ。
迷いのない声。
薬草を見る目。
そして、金額を聞いたあとですら変わらなかった表情。
「……僕には、そう見えました」
「馬鹿を言え」
黒木は即座に切り捨てた。
「そんな人間がいるものか」
「ですが……」
「人間が利益を求めないはずがない」
黒木は机の資料を指で叩いた。
「ならば、我々が見落としているだけだ。あの男には、金以外の利益がある」
「金以外の利益……?」
「そうだ」
黒木の目が細くなる。
「初心者からの感謝だ」
高橋が黙った。
「自分の薬で傷が治った。助かった。ありがとう――その言葉を受け取ることが、あの男にとって金以上の価値を持っている」
「……でも、佐伯さんはそんなことを――」
「だからこそだ」
黒木は言葉を重ねる。
「本人が自覚していないだけかもしれん。自分が必要とされる場所から離れたくない。感謝される立場を失いたくない。その欲求が、六千万円より強いのだ」
高橋は返す言葉を失った。
黒木は窓の外へ目を向ける。
「なら、その場所をなくせばいい」
「……え?」
「佐伯が必要とされている場所を、帝国製薬が奪う」
黒木は淡々と続けた。
「冒険者ギルドの初心者窓口と供給契約を結べ。主要都市の冒険者ギルドにも営業をかける。百円前後で買える新商品を大量に流通させろ」
「ですが、それでは……」
「供給量はこちらが上だ。大企業としての信用もある」
黒木は資料を閉じた。
「個人事業主の薬草水など、流通から外してしまえばいい」
「佐伯さんの販売先を……潰すんですか?」
「潰す?」
黒木は冷たく笑った。
「市場競争だ。こちらが勝つだけだ」
高橋の顔が強張る。
「買い手がいなくなれば、佐伯も現実を見る。自分が何を必要としていたのか、そこで初めて分かるだろう」




