第23話 それだけは譲れない
午前七時半。
朝の澄んだ空気が、古い一軒家の土間に満ちていた。
俺は袖を捲り上げ、作業台の上に広げた緑薬草の葉を一枚ずつ手で撫でていた。指先に伝わる適度な水分と、青くささの残る強い香り。今日の薬草は状態が良い。
「よし……これなら蒸らし時間をいつもより三十秒縮めても綺麗に抽出できるな」
コンロをセットし種火を入れたところで、屋外の砂利を踏む低いタイヤ音が聞こえた。
高級車のエンジン音が止まり、バタンとドアが閉まる硬い音が二つ。
「……こんな朝早くに、お客さんか?」
手についた薬草の粉末をタオルで拭い、玄関のガラガラと鳴る引き戸を開ける。
玄関先にいたのは、帝国製薬の人間だった。
黒のオーダーメイドスーツに身を包んだ男。
その背後には見覚えのある中堅社員が控えている。
「……黒木本部長? それに、高橋主任?」
帝国製薬のかなり上の立場にいる人だ。
俺が現場にいた頃も、名前や功績を聞くことは何度もあった。だが、直接話したことは一度もない。
そんな雲の上の人が、なぜ郊外の古い借家に立っているのか。
「どうして……俺の家に?」
「佐伯修一君だな」
直接言葉を交わしたことはないはずなのに、黒木は当然のように俺の名前を呼んだ。
挨拶も前置きもなく、埃っぽい土間を靴底で確かめるように見回す。
黒木はここへ来た理由を説明する必要すらないと言わんばかりの顔をしていた。
「単刀直入に言おう。今日は君に、非常に良い話を持ってきた」
黒木は俺の返事を待たず、靴を脱いで古い畳のあがる小さな居間へと足を踏み入れた。使い込まれた座布団に腰を下ろすと、高橋にアタッシュケースを開けさせ、一枚の厚手の書類を取り出した。
「佐伯君。我が社に戻ってきてもらいたい」
黒木は白紙の上に書かれた数値を、指先でコンコンと叩いた。
「復職の条件だ。新設する特設錬金ラボの責任者。直属の研究スタッフ五名。原料調達費はすべて会社持ち、研究開発の全権限も与える。……そして年俸は二千四百万円」
二千四百万円。
個人工房の一年間の売り上げだけで考えれば、簡単には届かない額だ。
黒木は背もたれに体を預け、もう話は決まったとでも言うように続けた。
「君なら、こんなボロ屋敷で一日三百本などという非効率な制限を受ける必要はない。我が社の最新設備と潤沢な資金を使えば、より多くの市場に君の薬を届けられる。君にとっても、我が社にとっても、これが最高の選択だ」
俺は黒木が差し出した書類を静かに見つめた。
破格な条件であることは理解できた。年俸も、設備の規模も、俺のような現場上がりの職人にはもったいないほどだ。
「……確認ですが。俺が作る薬はどうなるんですか?」
「三か月後に控えている新ライン、ハイポーションとして量産する。君の手作業の判断基準を、我が社の生産体制に組み込むのだ」
「誰に……売るんですか?」
「決まっているだろう。ダンジョンへ挑む冒険者たちだ」
「駆け出しの、初心者の人たちにも届くんですか?」
俺が問いかけると、黒木の指が止まった。
数秒の間を置いて、黒木はふっと呆れたように鼻で息を鳴らした。
「……ふむ。佐伯君、そこが君の甘いところだ」
黒木は身を乗り出し、親身な上司が教え諭すような穏やかな口調で言った。
「君の薬草水は、成分分析の段階で我が社の特選上級ポーションを越える程の異常な効果が出ている。それほどの価値あるものを、金の持っていない初心者に買い与えるような真似をする必要がどこにある?」
「……え?」
「一瓶百円など、あまりにも無意味だ。採算が合わんし、利益率も低すぎる。君ほどの技術は、命の危険がある高難度ダンジョンへ挑む、上級冒険者にこそ相応しい。彼らなら一本数千円、いや数万円でも喜んで買う。希少な最高級ポーションとしてブランド化すべきだ」
黒木は満足そうに頷いた。
「初心者向けの安価な薬など、君ほどの技術者が作る必要はない。そういうものには、我が社の全自動ラインが吐き出す標準品で十分なのだから」
俺は返事をしなかった。
台所の奥から、大釜がグツグツと音を立てている。
あの少年の名前が浮かんだ。
なけなしの百円玉を握りしめて、薬草水を買っていった若い冒険者。
それから、レビューを書いてくれた新米冒険者。
『この薬のおかげで、怪我をせずに帰れました』
彼らは決して、恵んでもらいたいわけじゃない。
これから命を懸けてダンジョンに挑み、自分の力で経験を積み、一人前になろうとしている。
上級冒険者なら高くても買える。
駆け出しの若者にはそれができない。
手元の百円で命を繋いでいる。
「……数千円じゃ、駆け出しの若者には何本も買えません」
俺は声を荒らげなかった。
「……なに?」
「百円なら、十本買えるんです」
黒木の目を真っ直ぐに見る。
黒木は眉根を寄せた。
「佐伯君、何を言っている? 効率と市場価値の話をしているんだ。君の優れた技術を、購買力のない層に使うのは資源の無駄遣いだと言っているのだよ」
「……すみません、黒木本部長」
俺は頭を下げた。
「そのお話、お断りさせていただきます」
高橋の喉が、小さく鳴った。
「……何だと?」
黒木の顔から余裕の笑みが消えた。
「二千四百万円だぞ? 専用ラボも、スタッフも、予算もすべて君の思い通りになるんだぞ!?」
「分かっています」
「それを捨てて、こんな古い一軒家で、百円の薬を初心者に売り続けるというのか!?」
「はい」
俺は立ったまま、黒木の鋭い視線を受け止めた。
「俺は初心者の冒険者さんたちが無事に帰ってくるために、この薬を作っていますから」
作業場を振り返る。
ぐつぐつと煮立つ大釜から、白い蒸気が立ち上っていた。
「……それだけは、譲れません」
「……君は己の技術の価値を殺しているんだぞ!」
「価値を殺してなんていません」
俺は作業場に目を向けた。
「必要な人が買える値段にする。それが俺の作っている薬草水の価値です」
黒木はガタリと音を立てて立ち上がった。
握った書類がくしゃりと鳴る。
「……後悔するぞ、佐伯」
「お気をつけてお帰りください」
黒木は吐き捨てるように言い放つと書類をアタッシュケースへ押し込み、一度も振り返らずに玄関を出て行った。
◇
郊外の道路を走る、黒塗りの高級車内。
後部座席の黒木は肘掛けに肘をつき、深く拳を握りしめていた。
「……ほ、本部長。佐伯は……断ってきましたね」
隣の席で縮こまる高橋が、恐る恐る声をかける。
「どう……どうされましょうか? 三か月後の新ライン、ハイポーションの発売には、佐伯の技術が不可欠ですが……」
黒木は沈黙したまま車窓の外を睨みつけていた。
(……あり得ん)
人間は利益と対価で動く。
金を払えば働く。
権限を与えれば成果を出す。
名誉を与えれば忠誠を示す。
少なくとも黒木がこれまで見てきた人間はそうだった。
(ならば、二千四百万円では足りなかっただけだ)
黒木は目を細めた。
(あの男は帝国製薬に戻ることを拒んだわけではない。条件に納得していないだけだ)
「……そうか。まだ足りない」
黒木は手帳を開いた。
「高橋。経営会議を緊急招集しろ」
「え……?」
「年俸六千万円。そして、新設するポーションブランドの名称を『サエキ・モデル』として冠させろ」
「そこまで……?」
「佐伯という職人の名前を帝国製薬の歴史に刻んでやる」
黒木は手帳に新しい条件を書き込んだ。
今度こそ、あの男は断れない。




