第22話 断る理由などない
「……確認だが数字に変わりはないな」
帝国製薬・経営企画本部。
黒木はデスクに置かれた厚みのある報告書から目を離さず、短く問うた。
向かいに立つ高橋主任は背筋を伸ばしたまま答える。
「はい。この数日間の継続調査でも変化はありません。佐伯修一による佐伯錬金工房の生産量は一日平均三百本。一週間で二千百本前後です」
「そこはいい。初期の調査でも分かっている」
黒木はページをめくる手を止めた。
「我が社の脅威にはならん。……問題は、追加で行った成分分析と、ここ数日の追跡結果だ」
黒木はデスクの端に置かれた解析データを指先で叩いた。
「過去の佐伯の原料ロス率、〇・八パーセント。そして現在の薬草水も、その技術の延長線上にある。手作業による五感の微調整……佐伯という男にしか再現できない技術がある。ここまでは分かった」
黒木は背もたれに体を預ける。
「私が知りたいのはその技術をあの男が今、どんな環境で使っているかだ。現地調査班の報告を見せろ」
「はい。こちらです」
高橋が差し出した資料を黒木は無言で読み始めた。
数ページ進んだところでその指が止まる。
「……何だ、これは」
「記載の通りです。佐伯が借り受けている工房兼住居の調査結果です」
並んでいたのは、帝国製薬の研究施設とはかけ離れた設備の一覧だった。
「十二坪の古い木造家屋……。設備は中古の汎用錬金釜が一基。抽出用のガラスフラスコが数本。自動化設備はなし。手動の瓶詰器と、手洗いの洗浄槽……」
黒木の眉がわずかに動く。
「高橋。特殊な高純度抽出魔導具や未認可の大型精製炉が隠されていたわけではないのか?」
「一切ありません。張り込み班が数日かけて監視しましたが、外部からの魔力供給線もなし。設備投資額も推定五十万円以下です」
「……五十万以下?」
「はい」
「我が社の新卒研究員に与えられる実験設備の方がまだ充実しているな」
黒木は報告書に添付された写真へ目を落とした。
平屋の古い台所を改装したような作業場。
安価な木製の作業台。
フチの削れた銅製の攪拌棒。
使い込まれたガラス瓶。
薬草水を生み出しているとは思えないほど質素な場所だった。
「……設備は我々のものより遥かに劣っている」
「はい。原料も同じです。市場で普通に流通している、一番安い緑薬草の標準品。特別な契約農家も高濃度の魔導薬草も確認されていません」
黒木は資料をめくった。
仕入れデータと出荷データが並んだページで、指が止まる。
「……仕入れ量。緑薬草、一週間で十キログラム。それに対して出荷数が二千百本……?」
黒木は電卓を手に取り、数字を打ち込んだ。
数秒後、表示された結果に目を落とす。
「おかしい。我が社の標準工程なら、緑薬草十キロから抽出できる薬草水は、せいぜい千本前後だ。二千本を超える製品化など、計算上あり得ん」
「はい。ただ、原料ロス率だけでは説明できません」
高橋は資料を一枚めくった。
「佐伯は通常なら廃棄する葉柄や繊維部分に残った有効成分まで回収しています。それだけではありません。その日の薬草の状態に応じて、抽出条件そのものを変えている」
「つまり?」
「同じ十キロでも、取り出せる有効成分の量そのものが違う、ということです。佐伯は原料を使い切っているだけではありません。薬草ごとに抽出方法を変えて、我々が捨てていた成分まで製品に回している」
「……我が社の機械が一括廃棄している成分まで、薬効に変えているということか」
黒木は資料から目を上げなかった。
しばらくして、高橋が別の資料を差し出す。
「もう一点、あります」
「まだあるのか」
「佐伯の作業時間です。ここ数日、一日の行動を張り込み班が記録しました」
黒木は顔を上げた。
「死に物狂いで朝から晩まで釜を回しているのか? 一人で三百本を維持するなら、睡眠時間を削る必要があるだろう」
「いいえ。むしろ逆です」
高橋が資料を開いた。
そこに記されていたのは拍子抜けするほど規則正しい生活だった。
午前五時に起床。仕入れと下処理を済ませ、午前中に抽出から瓶詰めまでを終える。午後には梱包と翌日の仕込み、清掃を済ませ、夕方には作業を終了。午後十時には就寝。
「……これが毎日?」
「はい。残業も徹夜もありません。毎日ほぼ同じ時間に作業を終え、七時間前後の睡眠を取っています」
黒木の指が止まった。
一人で一日三百本。
これまで黒木はそれを一人で作れる限界量だと考えていた。
だが違う。
佐伯は限界まで働いているわけではない。
自分の技術を維持し、生活を崩さず、品質を落とさずに作れる量を、三百本と決めている。
黒木は椅子から立ち上がり、窓の外へ目を向けた。
「高橋。新ライン、ハイポーションの発売予定はいつだ?」
「え? あ、はい。三か月後を予定しています」
「三か月か……」
黒木は報告書へ視線を落とし、深く思考を巡らせた。
「今から我が社の研究員に佐伯の薬草水を解析させ、手作業の工程をマニュアル化して再現させるのに、どれだけの時間がかかる?」
「……現実的には、半年以上かかります。下処理の微調整や温度管理は、データ化しようにも個体差が大きすぎます。三か月後の発売には到底間に合いません」
「分析や模倣ではダメだ。では、工房を買収してレシピだけ買い取るのは?」
「不可能です。レシピそのものはごく普通の工程ですので、佐伯本人の目利きと匙加減がなければただの気休め程度の薬草水にしかなりません」
(……三百本という数字そのものを見て、脅威ではないと判断していた)
(だが、問題は生産量じゃない)
(設備も原料も最低限。それで毎日、同じ品質を出している)
黒木は静かに息を吐いた。
選択肢は消えた。
機械では再現できず、解析も間に合わず、レシピだけ買っても機能しない。
黒木は窓に映った自分の顔を見た。
「……我が社に足りないものは、設備ではない」
高橋が黙って見守る。
「最新の精製炉でも、潤沢な資金でもない」
黒木は振り返った。
「……佐伯修一、そのものだ」
「はい」
高橋も頷いた。
「彼の技術がなければ、我が社の新ラインハイポーションでさえ、佐伯の薬草水には勝てません」
「なら、話は簡単だ」
黒木は高級万年筆を手に取った。
「機械で再現できないなら、人間ごと戻せばいい。佐伯を帝国製薬に復帰させる。新ラインの責任者としてあの男を座らせれば、三か月後の発売にも確実に間に合う」
高橋が目を瞬かせる。
「しかし本部長。彼は解雇された身です。素直に応じるでしょうか……?」
「応じる」
黒木は迷いなく言い切った。
「なぜそう言い切れるのです?」
「簡単だ。佐伯は優秀な職人だが、今は古い一軒家で不効率な作業を一人で続けている。予算も設備もない過酷な環境だ。あれほどの技術を持つ男が、本音でそんな現状に満足していると思うか?」
白紙の上に流れるような字で条件を書き始める。
「あの男が本当に望んでいるのは、己の技術が正当に評価され、存分に腕を振るえる場所だ。自分を追い出した我が社だからこそ、圧倒的な評価を示してやれば必ず戻ってくる」
黒木は書き終えた紙を高橋へ渡した。
「専用の特設ラボを用意する。研究スタッフを五名。原料調達はすべて会社持ち。研究開発の裁量権も与える」
「……はい」
「年俸は二千四百万円」
「に、二千四百万円……!」
高橋の声が裏返った。
黒木は構わず続ける。
「設備も予算も、帝国製薬なら好きなだけ与えられる。しかも元大企業の幹部格としての復職だ。不満など出るはずがない」
黒木の中ではすでに答えが出ていた。
佐伯には技術がある。
帝国製薬にはそれを生かす設備と資金がある。
ならば、条件を提示すれば戻ってくる。
「明日の朝、車を手配しろ。私が直接、佐伯の工房へ行く」
「かしこまりました!」
◇
同じ頃。
郊外の静かな住宅街に立つ、古い木造一軒家。
台所では鍋がぐつぐつと音を立てている。
醤油と出汁の香りが夕食時の家に広がっていた。
「よし、今日の晩飯は肉じゃがだな」
俺はお玉で煮込み具合を確かめた。
「うん。いい感じだ」
火を弱めると、作業場へ戻る。
乾燥棚には洗ったばかりのガラス瓶が並んでいた。
その隣には明日の仕込みに使う緑薬草。
そのうちの一枚を指先でつまみ、軽く揉んだ。
カサカサと乾いた音がする。
「ん……今日の薬草は、いつもより少し乾燥が進んでるな」
鼻を近づける。
いつもの香りより、わずかに青臭さが強い。
「明日の朝は抽出温度を二度下げて、蒸らす時間を一分延ばすか」
俺は薬草を元の場所へ戻した。
「よし。これで明日も大丈夫だ」
作業台の上に並んだ百円の薬草水を思い浮かべる。
「若い冒険者さんたちが明日も無事に帰ってこられるといいな」
それだけ言うと、台所へ戻った。
「さて、冷めないうちに食うか!」
肉じゃがの鍋から、湯気が立ち上る。




