第21話 佐伯は作業中に何を見ていた?
翌朝。帝国製薬・経営企画本部。
佐伯修一に関する調査はすでに始まっていた。
現在の住居、工房設備、原材料の仕入れ先、販売実績。
そして、過去十五年間の勤務記録。
黒木はその中でも製造現場に残されていた古いデータを開いている。
経営企画本部長室はいつも以上に冷えていた。
無垢材のデスクに置かれた大型端末の光が、黒木の眼鏡に青白く映っている。
黒木は画面をスクロールしていた指を止めた。
【原料ロス率:0.8%】
「……」
黒木はしばらくその数字を見つめた。
「そういえば……これも異常に低かったな」
黒木は過去十五年分の製造記録を開き直した。
「……まて。なぜ機械化した現在の方が原料効率まで悪い?」
声音に苛立ちが滲む。
傍らに立つ部下がタブレットを確認しながら答えた。
「過去十五年分の社内アーカイブと、現在の全自動調合プラントの運用実績を照合しました。入力ミスではありません」
画面には二つのグラフが並んでいる。
右側は最新鋭の全自動プラントによる日産十五万本の製造実績。
左側は佐伯修一が第一製造課の片隅で、旧式のろ過釜と手動抽出器を使っていた頃の記録だった。
全自動プラントの原料ロス率は平均4.2パーセント。
最新設備を備えた製薬プラントとしては十分に優秀な数字だ。
ところが佐伯が担当していた時期の記録は違った。
「佐伯の記録は……平均〇・八パーセントです」
「〇・八パーセント……」
黒木の指が机を二度叩いた。
「ほとんど捨てていないじゃないか。機械なら投入量をミリグラム単位で管理できる。温度だってセンサーで監視している。それなのになぜ一人の手作業に負ける?」
「クレーム率と返品率もご確認ください」
部下が画面を切り替える。
「現在の自動化ラインでは、品質検査を通しても一定数の返品やクレームが発生しています。一方、佐伯が担当していた製品は……十五年間、クレーム率がほぼゼロ。返品はゼロです」
「……それは、前にも見た」
「はい」
「単に佐伯の担当ラインが優秀だっただけだと思ったが……」
黒木は黙った。
脳裏にこれまでの調査結果が浮かぶ。
退職前の製造記録。
冒険者たちからの異常な評価。
そして、どれだけ成分や配合を調べても再現できなかった百円の薬草水。
黒木は背もたれに体を預けた。
「……薬草水だけが退職後に突然できたわけではないのか」
佐伯修一は会社を辞めてから何か特別な技術を身につけたわけではない。
十五年間、帝国製薬にいた頃から同じ仕事をしていた。
「我が社が人件費の無駄、効率の阻害と判断して切り捨てた男が……最新鋭の設備より高い精度で仕事をしていた、ということか」
黒木は眼鏡を外し、眉間を指で押さえた。
原料は普通。
設備も古い。
記録された手順にも特別なものはない。
それなのに佐伯が作った製品だけが違う。
「高橋主任の言う通りだな」
眼鏡を掛け直す。
「工程のどこかに記録から抜け落ちたものがある」
黒木は社内データベースを開いた。
「佐伯の作業を一番近くで見ていた人間を呼べ」
「一番近く……ですか?」
「薬草下処理課で佐伯の下についていた若手だ。確か……桐島だったな」
「はい。すぐに呼びます」
◇
「……僕を、ですか?」
呼び出された桐島は経営企画本部長室の革張りソファの端に浅く腰掛けていた。
肩には力が入り目の前の紅茶にも手をつけていない。
向かいにいるのは社内で冷徹な合理主義者として知られる黒木本部長だ。
「気楽に答えてくれ、桐島君」
黒木は両手を組み、その上に顎を乗せた。
「君は以前、三年近く佐伯の作業を見ていたそうだな」
「はい」
「単刀直入に聞く」
黒木の視線が桐島を捉える。
「佐伯は作業中に何を見ていた?」
「何を……と言われましても」
桐島が困ったように視線を泳がせる。
「温度計か? 作業時間か? 薬草の重量か? 水量か?」
「あ……それも見ていました」
桐島は少し考えてから答えた。
「標準手順書にある数値は全部頭に入っていましたから」
「なら、何が違った?」
「……佐伯さんが見ていたのは、そういう数字じゃなかったんです」
黒木がわずかに身を乗り出した。
「数字じゃない?」
「はい」
桐島は膝の上で手を組んだ。
「あの人は、葉の色とか、湿り気とか、香りとか……釜に触れたときの熱の回り方まで見ていました」
「君にも違いが分かるのか?」
「……いいえ」
桐島は首を振った。
「僕には同じ葉にしか見えませんでした」
桐島の記憶が少しずつ形になっていく。
「薬草を釜に入れる前なんて、毎回、一枚だけ葉を取るんです。それを指先で擦って、匂いを嗅いで葉脈を触る」
「それで?」
「『今日のロットは少し乾いてるな』って」
桐島は当時の佐伯の声を思い出すように目を細めた。
「その日の状態に合わせて、抽出温度を変えていました。コンマ数度くらいですけど」
「手順書には?」
「そんな記載、ありません」
黒木の指が止まる。
「抽出の終了も、タイマーではありませんでした」
「では、何で判断する?」
「液体です」
桐島は両手を軽く動かした。
「ガラスのスポイトで少しだけ掬って、光にかざすんです。色を見て、匂いを嗅ぐ。それから『よし』って火を止める」
「時間は一定ではなかったのか?」
「はい。タイマーより十秒早い日もあれば、三十秒以上遅い日もありました」
黒木は眉を寄せる。
「……それでは標準化できない」
「僕も、そう思って聞いたんです」
桐島は苦笑した。
「『何秒で止めるんですか?』って」
「佐伯は何と答えた?」
桐島は少しだけ顔を緩めた。
「困ったように笑って……こう言いました」
『決まってないよ。葉っぱがもう十分だって顔をしてるから止めるんだ。十五年もやってれば、そりゃ誰でも手が勝手に覚えるよ。特別なことじゃない』
黒木の目が細くなる。
十五年前から続けてきた仕事。
本人にとっては特別な技術ですらない。
ただ毎日繰り返してきた作業の積み重ねだった。
「桐島君」
黒木が低く尋ねる。
「君は三年かけても、その感覚を身につけられなかったのか?」
「……無理でした」
桐島は視線を落とした。
「佐伯さんが辞めた後、僕があのラインを引き継ぎました」
膝の上で拳を握る。
「残っていた動画も何度も見ました。手順書も読み直しました。温度も時間も、できるだけ正確に合わせました」
「それで?」
「できたのは……普通のスタンダード品でした」
桐島は自嘲するように笑った。
「佐伯さんが作っていたものとは全然違いました」
黒木は黙っている。
「そこで、やっと分かったんです」
桐島は顔を上げた。
「手順書に書いてあったのは、作業の順番だけだったんです。佐伯さんがその場で見て、触って、匂いを確かめていたことまでは、どこにも残っていなかった」
その言葉を聞きながら黒木はモニターに表示された古い製造記録へ目を向けた。
数字だけなら佐伯は何も特別なことをしていない。
だがその数字の裏側には記録に残らなかった判断がいくつもあった。
「……つまり」
黒木が呟く。
「我々は佐伯の仕事を手順書だけで判断していた」
桐島は答えなかった。
否定する必要もなかった。
黒木は古い製造記録を閉じた。
「分かった。もういい」
「はい」
桐島が立ち上がる。
ドアへ向かいかけたところで黒木が呼び止めた。
「桐島君」
「はい?」
「佐伯が仕事をしていた頃、他に何か覚えていることはあるか?」
桐島は少し考えた。
「……そういえば、一つあります」
「何だ?」
「佐伯さん、作業が終わった後に、必ず失敗した薬草を別に分けていたんです」
黒木の目が止まる。
「失敗した薬草?」
「はい。葉が傷んでいたり、乾燥しすぎていたりするものです。捨てるんじゃなくて、全部種類ごとに分けて記録していました」
「……なぜ?」
「そこまでは分かりません」
桐島は首を振った。
「ただ、佐伯さんは『次に同じ状態の葉が来たとき、迷わないようにするんだ』って言ってました」
黒木はしばらく何も言わなかった。
「……そうか」
「失礼します」
桐島が部屋を出ていく。
ドアが閉まる音を聞いてから、黒木は机の上に残った資料へ目を落とした。
「……次に同じ状態の葉が来たとき、か」
それは手順書には一行も残されていなかった。
佐伯が十五年間、現場で積み重ねてきた判断の記録。




