第10話 百円の薬を……ギルドが検査する?
午前九時十五分。冒険者ギルド本部、地下二階の第一鑑定室。
無機質なコンクリートの壁に囲まれた室内に、蛍光灯の青白い光が落ちていた。
「昨日の時点で、お前は工房の設備に異常はないと言ったな」
デスクに両肘をつき、提出された報告書をめくりながら主任の長谷川が問う。その向かいには、昨夜遅くまで佐伯錬金工房の分析データをまとめていた鑑識課の神崎玄真が立っていた。目元にはかすかなクマが滲んでいる。
「はい。錬金釜は十年前の中古品、蒸留器も市販の耐熱ガラス製です。魔力遮蔽陣や違法な増幅回路の類は一切確認されませんでした」
「ならば今日の調査で確認すべきは、隠された設備ではないな。薬そのもの、そして製造工程のすべてだ」
「それだけではありません。昨日確認した『全損傷箇所の同時即時修復』という性能が偶然の産物でないこと。そして何より——安全性です」
神崎の言葉と同時に、鑑定室の重厚な防音ドアがスライドして開いた。
入ってきたのは二人。
白衣の胸元にギルド医務部門の金の紋章を刻んだ白髪交じりの老紳士——医務部門責任者の大河原。そして、黒のスーツを隙なく着こなした管理部門責任者の坂口だった。
「神崎君。話は一通り聞かせてもらった」
大河原は、神崎がデスクに置いていた試薬瓶——修一から購入した薬草水を一本、手袋越しに持ち上げた。透明なガラス越しに、沈殿物ひとつない翡翠色の液体が揺れる。
「これほど効く薬を、私はまず疑ってかかる。劇的な回復力をもたらす薬品には、相応の負担が隠れていることが多い」
大河原の硬い声が室内に響く。
「禁忌とされる溶媒による強力な抽出、あるいは過剰な魔力の強制充填。一時的に創傷を塞いでも、その代償として細胞の異常増殖や早期の壊死、あるいは重篤な魔力過充填反応を引き起こす。急性毒性が出なくとも、数日後に臓器不全で冒険者が倒れる例を、私はこの四十年間で山ほど見てきた」
坂口もまた、手帳を開きながら冷淡に付け加える。
「特に今回は、個人によるネットオークション出品です。適切な製造許可も無ければ、成分表示の義務も果たされていない。もしこれが毒薬や不法な違法薬品の類であった場合、すでに服用した駆け出し冒険者たちの人命に関わる。管理部門としても、見過ごすわけにはいきません」
「……その通りです」
神崎は深く頷いた。
「だからこそ、本日お二人にお越しいただきました」
大河原は壁の時計を見上げた。針は九時二十分を指している。
「これより佐伯錬金工房へ向かう。確認するのは、薬そのものの安全性と製造工程だ。神崎君、案内したまえ」
◇
午前九時四十五分。
俺は十二坪の作業場に掃除機をかけていた。
ヴヴヴと低い音を立てるノズルをコンクリート床の隅々に滑らせ、雑巾で真鍮の水槽と作業台をていねいに拭き上げる。雑巾から絞り出された水分がコンクリートに小さな湿り気を作り、すぐに乾いていく。
「よし、こんなもんかな」
作業台の上には、今朝早くに近くの素材店で仕込んできた竹ザル二枚分の初級回復草が並んでいる。青くさく瑞々しい香りが、狭い室内に満ちていて心地いい。手触りはしっとりと湿り気を含み、葉の表面に触れるとひんやりとした涼しさが指先に伝わってくる。
パチ、と音を立ててパソコンを開くと、ネットオークションの管理画面には、昨日の夜よりもさらに多くの通知が届いていた。
『佐伯さん! 前回の薬草水のおかげで、ダンジョンで挫いた足首がすぐ治りました!』
『仲間にも持たせたいので再出品待ってます!』
『一本百円でこの効き目は本当に助かります!』
「嬉しいなぁ。みんな、ちゃんと使ってくれてるんだ」
画面の文字を追いながら、俺は思わず口元を緩めた。
昨日の午後、ギルドの神崎さんから電話があった。
『明日、本部の医務部門責任者と、管理部門の上層部を伴って訪問調査に伺います』
そう言われた時は「ギルドの偉い人たちが来るのか」と少し緊張したけれど、よく考えたら当然のことだ。個人で薬品をネット販売しているんだから、安全確認や衛生面、営業関係のチェックみたいな家庭訪問だろう。
(まあ、薬品を扱ってるんだから、専門の人にちゃんと安全チェックしてもらえるならこっちとしても安心だしな)
俺は作業台の角をさすった。
中古市場で買い叩いた古い鋳鉄製の小型精錬窯。耐熱ガラスの蒸留器。使い古した包丁。
(ギルドの人が見に来ても、どこにでもある普通の薬草と、安い中古の窯しかないんだけどな……)
ガラガラ、と工房の引き戸が開く硬い音が響いたのは、ちょうどその時だった。
◇
「あ、おはようございます、神崎さん」
俺は雑巾をバケツの縁にかけ、笑顔で出迎えた。
だが、玄関に足を踏み入れた人影を見て、声が止まった。
先頭に立つ神崎さんの後ろ。狭い土間に、ぎゅうぎゅう詰めで人が立っている。
白衣を着た白髪交じりの厳しい目つきの老紳士。その隣には黒いスーツを着て手帳を構えた男。さらにその後ろには、銀色の頑丈な金属ケースを両手に抱えた若いギルド職員が二人。
「……えっと、神崎さん。お一人じゃなかったんですね?」
「昨日お伝えした通りです。こちらが冒険者ギルド医務部門責任者の大河原。そして管理部門責任者の坂口です」
神崎さんが淡々と紹介する。
「佐伯修一さんですね。本日は事前の連絡通り、あなたが販売している『薬草水』に関する正式な安全性・実地調査に伺いました」
大河原さんが、低い声で名乗った。その視線は俺の顔から、背後の作業台へとなだめるように滑っていく。
「あ、はい! 聞いてはいましたけど……本当にこんなに大人数で来られるとは思いませんでした。狭いところですが、どうぞ入ってください」
俺が奥へ促すと、大河原さんと坂口さんは短く会釈をして工房へ入った。
靴底がコンクリートを踏むカツンという乾いた音が、工房の静寂に響く。
俺だけが「どうぞどうぞ」と愛想笑いを浮かべている。
……なんだか、俺の工房だけ妙に場違いな空気になっていた。
◇
大河原さんは白衣のポケットに両手を突っ込んだまま、十二坪の室内をぐるりと見回した。
壁際にあるのは、油汚れを拭き取ったばかりの古い鋳鉄製精錬窯。真鍮製の水槽には水道水が溜められ、作業台には使い古されたステンレスの包丁と、耐熱ガラスの蒸留器が置かれているだけだ。元は古い豆腐屋の居抜き物件だから、壁紙のあちこちが少し剥がれている。
「……本当に、これだけなのか?」
大河原さんが神崎さんに視線を送る。
「はい。昨日確認した機材と一切変わりありません」
坂口さんが手帳から顔を上げ、壁の隙間や床の接合部を鋭い目つきで観察し始めた。
「佐伯さん。隠し部屋や、床下に置かれた高魔力遮蔽装置の類はありませんか?」
「え? 隠し部屋なんてありませんよ。床下はただのコンクリートです」
「では、裏の倉庫に高出力の大型製錬プラントを設置しているとか……」
「いやいや、裏は狭い路地でドブがあるだけですって。見ますか?」
俺が苦笑しながら答えると、坂口さんは一度口を閉じ、大河原さんへ視線を向けた。
二人の間に、短い沈黙が落ちる。
(隠された高額設備も、特殊な魔法陣の描かれた錬金炉もない……。神崎の報告通り、どこにでもある零細の個人作業場だ。では、あの薬効はどこから生まれている?)
◇
「佐伯さん。まずは使用している原材料の確認をさせていただきます」
大河原さんが銀色のケースを開けさせると、中からポータブルアナライザーを取り出した。黒い筒状のセンサーがついた、ギルド最新型の測定機器だ。
「あ、どうぞ。今日の朝、駅前の木漏れ日素材店で買ってきた初級回復草です」
俺が竹ザルを差し出すと、大河原さんは手袋をはめた指で薬草を一束持ち上げ、センサーの先を押し当てた。
ピピッ、と甲高い電子音が鳴り、小さな液晶画面に波形グラフが表示される。
「……品種:初級回復草(野生種)。魔力含有量:0.08ミリマナ。変異反応:なし」
大河原さんがつぶやき、画面を凝視した。
「市販の格安品だな。魔力濃度の偏りもなければ、特殊な霊峰で採取されたような変異個体でもない。どこにでもあるただの薬草だ」
「はい。一番安い束で買ってきた普通の薬草ですよ」
「……君は、この薬草に保管段階で何か特殊な薬品をかけたり、魔力を馴染ませるような前処理を行っているのか?」
「特別なことは何もしてませんよ。乾かないように濡れ雑巾をかぶせて、日陰に置いておくだけです」
俺がそう答えると、大河原さんは薬草をザルに戻し、ゆっくり息を吐いた。
(素材に秘密はない。設備にも秘密はない。……ならば、目の前の作業を見れば分かるかもしれん)
大河原さんの視線が、俺の手元へと注がれた。
◇
「——では、普段通りに抽出作業を開始してください。我々は一切口を挟みません」
「わかりました。じゃあ、仕込みに入りますね」
俺は袖をめくり上げ、真鍮の水槽の前に立った。
竹ザルから薬草を数本掴み、水の中へ沈める。指先で葉の表面をなぞるように滑らせ、付着した泥や小さな砂粒を落としていく。
「……洗浄の時間は、一束あたり何秒と規定している?」
大河原さんがポータブルアナライザーのクロノメーターを起動しながら尋ねてきた。
「え? 秒数なんて決めてませんよ」
「決めていない? それでどうやって品質の均一化を図る?」
「泥が落ちたら終わりです。葉っぱによって泥のつき方も違いますし」
俺は手元を動かし続けた。
葉の表面のぬめり、茎の硬さ、水分を含んだ時のわずかな重みの変化。指の腹に伝わる感触だけで「よし、これは綺麗になった」と判断し、真鍮水槽から引き上げていく。
続いて、まな板の上に薬草を並べた。
包丁を握り、トントンと軽快な音を立てて刻んでいく。
一見するとテンポよく刻んでいるだけに見えるかもしれないが、俺は一本ごとに刃を入れる位置と角度を変えていた。
「……なぜ全部同じ大きさに切り揃えない?」
神崎さんが目ざとく気づいて尋ねてくる。
「同じ畑で採れた薬草でも、育ち方が一本一本違いますからね。日当たりが強い場所で育った葉は成分が詰まっていて硬いので、細かく刻まないとうまく抽出できません。逆に、陰で育って水分が多い柔らかい葉は、大きく切らないと煮崩れてアクが出ちゃうんです」
「な……」
大河原さんが即座にアナライザーの光軸をまな板の薬草へ向けた。
ピピッ、ピピッと短い電子音が連続して鳴る。
「……日照密度の高い葉を線幅0.8ミリでカット……水分密度の高い葉を1.5ミリでカット……」
大河原さんは画面と俺の手元を交互に見た。
「機械の分光分析と密度測定を当てて、初めて判別できる微小な密度の違いだぞ……!? それを、目視と指の感触だけで見抜いて切り分けているというのか!?」
「え? いやぁ、長年やってれば誰でも見れば分かりますよ。葉っぱの緑の濃さとか、茎の張り具合でだいたい分かりますから」
俺が包丁を置きながら苦笑すると、大河原さんは画面を見つめたまま黙り込んだ。
神崎さんも何か言いかけたものの、結局口を閉じる。
坂口さんだけが手帳に視線を落とし、何かを一行、書き込んでいた。
工房にはトントンという包丁の音が止まったあとの静けさだけが残った。




