第五話 渡海
海に出た。
夜明けとともに。東から日が昇った。日を背にして——西へ。
船が——百隻近くあった。漁船が多い。軍船は少ない。兵が数千。——武内宿禰が全部並べた。老人の仕事は速い。何代もの王に仕えた男は段取りを知っている。
私は——先頭の船にいた。腹が重い。立っているのがやっとだ。——しかし座らなかった。先頭の船で座っている将を兵が見たら、士気が落ちる。立つ。腹が重くても。
「座ってください」
「座らない」
「倒れたら——」
「倒れない。——託されたのだから」
海に出て——半日。沖に出た。
筑紫の岸が見えなくなった。水平線だけ。前も後ろも左も右も——海。
波が出てきた。風が出てきた。——船が揺れた。腹の子が蹴った。
「まだだ。——まだ出るな」
石を当てた。冷たい石を。——子が静まった。しばらく。
西に進んだ。——しかし遅い。風が正面から吹いている。向かい風。漕いでも漕いでも進まない。
「このまま漕ぎ続けても——水と飯が尽きます」
武内宿禰が言った。
「向かい風を——変えられないか」
「風は変えられません。——初代の王の剣なら変えられたかもしれませんが。あの剣は尾張に」
草薙剣。嵐の力を持った剣。——ここにはない。走る男が置いていった剣。走る男の物語の剣だ。渡る女の物語には——別の道具がある。
珠を——握った。白い珠。潮干珠。
温かかった。——手の中で。
珠を——掲げた。
海に向かって。西に向かって。
「退け」
声に出した。——自分の声で。神の声ではない。私の声で。
海が——動いた。
目の前の水面が——下がった。船の前方の海が。引いていく。水が引いていく。潮が——退いていく。
初代の王が使った青い珠は潮を満たした。水を押し上げた。——白い珠は逆だ。潮を退かせる。水を引かせる。
海が——道になった。
水面が下がり、船が下り坂を滑るように前に進んだ。潮が退いた分だけ——勾配ができた。高い方から低い方に水が流れる。船が流れに乗った。——漕がなくても進む。
「……漕がなくても——動いている」
兵が驚いていた。櫂を止めても船が前に進む。潮が船を運んでいる。
魚が——来た。
船の下に。周りに。——大量に。鯛が。鰤が。鰹が。大小の魚が。群れになって。船底を叩いていた。ごん、ごんと。
「何だ——魚が——」
「船を押している。——魚が船を押している」
海の全部が——船を押していた。潮と魚と風が。向かい風が——追い風に変わっていた。珠が潮を動かし、潮が風を変え、風が船を押していた。
手が——温かかった。珠を握った手が。初代の王は凍えた。指が動かなくなった。——私の手は温かい。温かいまま。代償がない。
なぜだ。——初代の王は代償を払った。右手の感覚を失った。私は何も失っていない。温かいだけだ。
「……代償がない」
「お后様——代償は、後で来るかもしれません」
武内宿禰が言った。
「後で?」
「珠の力は——使った分だけ返さなければならない。初代の王は体で返した。指の感覚で。——お后様は何で返すか。今は分かりません」
「……後で考える。——今は渡る」
三日で着いた。
普通なら——何日かかるか分からない海を。三日で。潮が運んでくれた。魚が押してくれた。風が追ってくれた。
陸が見えた。——西の陸。海の向こうの国。
あった。——夫が「ない」と言った国が。見えないと言った国が。
ある。——山がある。浜がある。田がある。煙が上がっている。人がいる。
「……あったな」
武内宿禰が言った。
「ありました」
「あの方が——信じていれば」
「信じなかった。——だから私が来た」
上陸した。
新羅。——海の向こうの国の一つ。
戦を——しなかった。
戦をするつもりで来たのではない。船百隻で来た。兵数千で来た。——しかし戦をするために来たのではない。神が「国を賜わん」と言った。賜うとは——戦って奪うことではない。与えられることだ。
新羅の王が——出てきた。
浜に。百隻の船を見て。数千の兵を見て。——そして、先頭に立つ腹の大きな女を見て。
「……女か」
「女だ。——日本の王の妻だ」
「王の妻が——腹に子を抱えて。百隻の船で。——何をしに来た」
「来いと言われたから来た。——神に」
「神に——」
「あなたの国を賜わると言われた。——賜われるか」
新羅の王が——黙った。百隻の船を見ていた。数千の兵を見ていた。——腹の大きな女を見ていた。
「……腹に子を抱えて海を渡る女に——逆らえる男はいない」
「逆らわないのか」
「逆らわない。——逆らえば殺されるからではない。腹に子を抱えて渡ってくる者に逆らうのは——道理に合わない」
「…………」
「道理に合わないことは——しない。我が国は道理の国だ」
新羅が降りた。——戦わずに。
百済も降りた。高句麗も貢ぎ物を送ると言った。——三つの国が。海の向こうの三つの国が。
剣を抜かなかった。——珠で海を渡り、腹で圧をかけ、道理で降ろした。力ではなく。嵐ではなく。——潮と、子と、言葉で。
「……終わりましたか」
武内宿禰が聞いた。
「終わった。——託されたことは終わった。神が言った通りに。海の向こうの国を得た」
「帰りますか」
「帰る。——帰らなければならない。腹が——もう持たない」
子が蹴っていた。——ずっと。渡海の間ずっと。石を当てても当てても蹴り返していた。頑固な子だ。——出たがっている。もう限界だ。
「帰る。——走るのではなく。渡るのでもなく。——帰る。帰る場所に」
珠を掲げた。もう一度。——帰りの海に。
潮が動いた。今度は——満ちた。東に向かって。日本に向かって。——船が潮に乗った。帰りの潮。
手が温かかった。——まだ代償がない。後で来るのか。来ないのか。——分からない。
分からないまま——帰る。
〈第五話・了〉




