第四話 神託
夫を埋めた。——香椎の宮の裏に。静かに。人には知らせなかった。
王が死んだことを知らせれば——国が揺れる。揺れている間に渡海はできない。渡海の準備が終わるまで——夫の死は隠す。
「隠せますか」
武内宿禰に聞いた。
「隠せます。——王は琴を弾いていて、誰にも会わない。それで通ります。あの方は——生きている間もそうでしたから」
生きている間も誰にも会わなかった男だ。——死んでも同じに見える。悲しいことだが——今は助かる。
夫を埋めた夜。——もう一度、神が降りた。
今度は——私に向かって。私の体を通してではなく。直接。声が聞こえた。頭の外から。
「渡れ」
「…………」
「西の海の向こうに国がある。——夫に託したが、夫は受けなかった。今度はお前に託す」
「私に」
「お前が渡れ。お前が取れ。——お前の腹の子が、その国を持って帰る」
「腹の子が——」
「男の子だ。お前の腹にいるのは。——その子が、次の王になる」
託された。
夫に降りた神託が——私に来た。夫が拒んだから。夫が死んだから。——次は私に。
託されたのだから——やる。
やる以外の選択肢がない。信じなければ死ぬと分かった。夫が証明した。——ならば信じて動く。動けば生きられる。動かなければ——夫の隣に埋まるだけだ。
腹の子と一緒に。——それだけは嫌だ。
準備を始めた。
兵を集めた。——筑紫にいる兵と、大和から呼び寄せた兵。合わせて数千。正確な数は武内宿禰が数えている。私は数えない。記す係ではない。——託される係だ。託されたことをやる係だ。
船を集めた。——筑紫の港にある船をかき集めた。漁船が多い。軍船は少ない。漁船で海を渡れるか。
「渡れます。——漁船の方が海を知っている。軍船は戦うための船だ。漁船は海で生きるための船だ。海を渡るなら——海で生きるための船の方が良い」
武内宿禰が言った。この老人は——何でも知っている。何代もの王に仕えてきたから。
「海を渡ったことはありますか」
「ありません。——しかし、渡った者の話は聞いています」
「誰の話ですか」
「初代の王の帳簿に——海を渡る話がいくつかあります。渦を越えた話。潮を使った話。——海は力で押すものではなく、潮に乗るものだ、と」
腹が——重くなっていた。
子が育っている。日ごとに。——蹴る。腹の中から。力がある子だ。蹴る力が強い。
「まだ出るな」
腹に向かって言った。
「まだだ。——海を渡ってからだ。向こう岸に着いてから出ろ。それまでは——中にいろ」
子が——蹴った。返事のように。
「聞こえたか。——出るなと言っている」
もう一度蹴った。——聞こえているが従わないと言っている。この子は——頑固な子かもしれない。
腹に石を当てた。冷たい石を。——腹を冷やせば子が静まると、産婆が言った。本当かどうか分からない。しかし静まった。石の冷たさで。——しばらくは。
ある夜。
海に出た。一人で。——筑紫の浜に。夜の海。暗い。波の音だけ。
初代の王は波の音で天気を読んだと帳簿にある。——私には読めない。波は波だ。音は音だ。
しかし——足を海に入れた。裸足で。波打ち際に。冷たかった。
足の裏に——何かが触れた。
石ではなかった。砂でもなかった。——丸いもの。小さいもの。手で拾い上げた。
珠だった。
白い珠。波の泡の色。——手のひらの上で、かすかに光っている。冷たくはなかった。温かくもなかった。——ただ、ある。手の中に。収まっている。
「……何だこれは」
武内宿禰に見せた。
老人の目が——変わった。何代もの王に仕えた目が。見たことのあるものを見る目に。
「……これは」
「知っているのですか」
「知っている。——帳簿で読んだ。初代の王が持っていた珠です。潮干珠。海を退かせる力を持つ珠」
「初代の——」
「初代の王が祖父から受け継いだ珠です。海の神・綿津見から渡された珠。二つあった。青い方と白い方。——初代の王は青い方だけ使えた。白い方は応えなかった」
「応えなかった?」
「男には応えなかった。——帳簿にそう書いてあります。『海の半分しか知らない男には半分しか応えない』と。白い珠は——最後まで沈黙していた、と」
「それが——私の足元に」
「初代の王は——最後に珠を根に返した。木の根元に埋めた。根を通して土に還した。——土に還った珠が、海を通って、ここに流れ着いたのかもしれない」
「流れ着いた——」
「あるいは——あなたを待っていたのかもしれない。男には応えなかった珠が。女の手を待っていた」
白い珠を——握った。
温かくなった。——握った瞬間に。手のひらが温かくなった。初代の王は珠を握ると冷たくなったと帳簿にある。凍えるほど冷たくなったと。指が動かなくなったと。
私の手は——温かい。珠が温かい。冷たくない。——応えている。私に。男には冷たかった珠が、女には温かい。
なぜだ。——分からない。海を知らないはずだ。私は。内陸の生まれだ。海で育っていない。泳げない。潜れない。——海を知らない女に、なぜ海の珠が応える。
「……お后様」
「何ですか」
「腹に——子がいるからかもしれません」
「子が?」
「子を宿した女の体は——海に近い。子は水の中にいる。腹の中の水は——海と同じものです。子を宿した女は、海を体の中に持っている」
「…………」
「海を体の中に持っている者には——海の珠が応える。外の海を知らなくても。中の海を持っているから」
腹の中の海。——子が泳いでいる海。
この珠は——私に応えたのではない。私の中の海に応えた。私の中にいる子に応えた。
子が——蹴った。珠を握った瞬間に。強く。
「……お前も分かるのか」
蹴った。もう一度。
「分かるんだな。——海の珠だと」
潮干珠。——海を退かせる力。
初代の王が使えなかった珠。男には応えなかった珠。——私の手に来た。腹の中の海に応えて。
これで——渡れる。
潮を退かせれば——海が道になる。船を出さなくても——歩いて渡れるかもしれない。歩いて渡れなくても——潮を操れれば、船の進む道を作れる。
「準備は整いましたか」
武内宿禰が聞いた。
「船はあります。兵はいます。珠が来ました。——揃いました」
「腹の子は」
「まだ出ない。——出るなと言ってある」
「従いますか」
「従わないかもしれない。——しかし石を当てている。冷たい石を。しばらくは持つ」
「…………」
「渡ります。——明日」
「明日」
「明日。——待てない。腹が持たない。持つうちに渡る。着いてから生む」
「……常軌を——」
「逸している、と言いたいのですか」
「いいえ。——お后様は常軌の中にいます。常軌の中で、常軌を超えたことをしている。——それは、逸しているのとは違います」
「……褒めているのですか」
「お仕えしています」
夜明け前。浜に出た。
船が並んでいる。兵が乗り込んでいる。——腹が重い。子が蹴る。「まだだ」と腹を押さえる。石を当てる。
白い珠が手の中にある。温かい。
西の海が——暗い。まだ夜だ。夜明け前に出る。——日の出とともに海に出る。東から日が昇る。日を背にして西に渡る。
日を背にする。——初代の王の兄が遺した言葉。「日を背にしろ」。東征の遺言が——渡海にも使える。
渡る。——託されたのだから。
〈第四話・了〉




