第三話 信じなかった王
夫が死んだ。——琴を弾いている途中で。
私の名は息長帯比売。死んだ王の妻。
ここから先は——私が語る。
夫は——走らない男だった。
夫の父は走る男だったと聞いている。日本武尊。止まれない男。西に東に走り続けて、白い鳥になった男。
その息子が——走らなかった。父と逆だった。止まれない父の子が、動かない男になった。走ることを——拒んでいるように見えた。父のようにはならないと。走って死ぬことはしないと。
帯中日子命。仲哀。——十四代目の王。私の夫。
夫は——穏やかな人だった。怒らない。急がない。走らない。——座っていることが好きだった。琴を弾くことが好きだった。
琴がうまかった。指が長くて、弦を弾く動きが滑らかで。——夕方になると宮の奥で弾いていた。低い音が壁を通して聞こえた。
「なぜ琴を弾くのですか」
「止まっていられるからだ。——琴を弾いている間は、座っていても足がざわつかない」
「足がざわつく?」
「父の血だろう。——座っていると足が騒ぐ。走れと言っている。立てと言っている。——琴を弾いていると静まる。指が動いているから。指が動いている間は足が黙る」
夫にも——走る血が流れていた。止まれない血が。しかし夫はそれを拒んだ。走らずに済む方法を見つけた。琴を弾くことで足を騒がせない方法を。
賢いと思った。——しかし、走るべきときに走れない男でもあった。
筑紫にいた。
西の端。海が近い。——香椎の宮にいた。熊襲の残りを鎮めるために西に来ていた。日本武尊が平らげたはずの西に——まだ従わない者がいた。
父が走り尽くしても——走り残しがあった。走り残しを始末するのが息子の仕事だった。しかし息子は走らない。宮に座って琴を弾いている。
ある夜。
神が——来た。
夫が琴を弾いていた。私が隣にいた。武内宿禰が控えていた。——老臣。何代もの王に仕えた男。白髪。腰が曲がっている。しかし目が鋭い。
私の体に——何かが入った。
入った、という言い方は正確ではない。降りた。上から。頭のてっぺんから。体の奥に。——自分の意志ではない。私が呼んだのではない。向こうから来た。
口が——勝手に動いた。
「——西に国がある」
自分の声ではなかった。——自分の口から出ているのに、自分の声ではない。低い。重い。地面の底から響くような声。
「西の海の向こうに——金銀に満ちた国がある。その国を、汝に賜わん」
夫が——琴の手を止めた。私を見た。
「…………」
「西を——渡れ。海を越えろ」
夫が——立ち上がった。ゆっくり。琴を膝から降ろして。
窓に行った。——西を見た。海の方角を。夜の海は暗い。何も見えない。
「……西を見ても、国は見えない」
「…………」
「海しかない。——海の向こうに国があるとは思えない」
私の口から——また声が出た。自分の声ではない声が。
「見えなくても——ある。見えないものが見えないからといって、ないとは限らない」
「見えないものを信じろと?」
「信じろ」
「…………」
「信じて、渡れ」
夫が——振り返った。私を見た。私の口から出ている声を聞いている。——しかし信じていない目だった。
「嘘だ。——海の向こうに国などない」
神が——怒った。
私の体の中で。怒りが——熱くなった。体が燃えるように熱くなった。口が開いた。
「この国は——お前のものではない」
「…………」
「お前は——一つの方向に行け」
一つの方向。——それは。
夫が——琴を手に取った。座り直した。——弾き始めた。何事もなかったかのように。神の言葉を聞いた直後に。——琴を弾き始めた。
信じなかった。——最後まで。見えないものは信じない。聞こえないものは信じない。——走らない男は、走る理由を信じない。
琴の音が——止まった。
指が止まった。弦の上で。——動かなくなった。
「…………」
「あなた」
「…………」
「あなた——」
目が——開いていた。しかし見ていなかった。琴の弦を見ていたはずの目が——何も見ていなかった。
死んだ。——琴を弾いている途中で。
指が弦の上で止まって。目が開いたまま。座ったまま。——走らなかった男は、走らないまま死んだ。
神を信じなかった代償だった。——あるいは、走る血を拒み続けた代償だった。どちらか分からない。両方かもしれない。
武内宿禰が——私の前に膝をついた。
「……お后様」
「…………」
「王が——」
「死にました」
「…………」
「神が殺しました。——信じなかったから」
「……お后様は——信じたのですか」
「…………」
「海の向こうに国がある、と。——信じたのですか」
信じたか。——信じたのか。私は。
神が降りた体で。自分の声ではない声で。西に国があると言った。——信じたか。
分からなかった。——信じたかどうか。しかし——一つだけ確かなことがある。
信じなかった夫が死んだ。
信じなければ死ぬ。——ならば信じる方がましだ。信じて間違っていても生きている。信じずに正しくても死んでいる。
生きている方がいい。——腹に子がいるから。
「信じます」
「…………」
「夫が信じなかったことを——私が信じます。夫が渡らなかった海を——私が渡ります」
「お后様——腹に子が」
「子がいるから渡る。——子がいなければ、ここで死んでもいい。子がいるから——生きる方を選ぶ。信じる方を選ぶ」
武内宿禰が——黙った。長く。老いた目で。何代もの王を見てきた目で。——私を見た。
「……お仕えします。——お后様に」
「ありがとう。——しかし后ではなくなります。夫が死んだから」
「では——何と」
「分かりません。——渡って、帰ってきてから考えます。名前は後でいい。先に——船を集めてください」
夫の琴が——まだ膝の上にあった。指が弦の上にあった。
琴を——外した。夫の膝から。指を——弦から離した。冷たかった。——夫の指は長くて冷たかった。生きているときも冷たかった。琴を弾くときだけ温かくなった。
「あなたは——信じなかった。走らなかった」
死んだ夫に言った。
「私は走らない。——しかし渡る。あなたが信じなかったものを信じて。あなたが見なかったものを見に行く」
「…………」
「腹の子を——連れて」
窓の外を見た。——西の海。夜の海。暗い。何も見えない。
見えない。——しかし、ある。あると言われた。神に。
信じる。——信じるしかない。信じなければ死ぬ。信じれば——生きて、渡って、帰ってこられるかもしれない。
かもしれない。——「たぶん」よりは強い。「必ず」よりは弱い。
かもしれない、で十分だ。——腹の子と一緒に。
〈第三話・了〉




